「あいつも喜んでいるさ」なぜ人間は故人をさも生きているように語る?宗教学者が葬式をする唯一の動物<ホモ・サピエンス>のナゾに迫る
「死んだらどうなるのか」「天国はあるのか」。古来から私たちは、死や来世、不老長寿を語りついできました。謎に迫る大きな鍵になるのが「宗教」です。日本やギリシアの神話、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から、仏教、ヒンドゥー教、そして儒教、神道まで。死をめぐる諸宗教の神話・教え・思想を歴史的に通覧した、宗教学者・中村圭志氏が綴る『死とは何かーー宗教が挑んできた人生最後の謎』より一部を抜粋して紹介します。 【書影】「死んだらどうなる?」「来世はあるのか?」「不老長寿?」古来からの尽きせぬ〈不可解〉を宗教哲学者・中村圭志氏が綴る『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』 * * * * * * * ◆霊魂信仰と葬式の起源 人間以外の動物は、霊魂観も来世観ももたない。人類がそのようなものを考えるようになったのは、どのような身体的・環境的・進化的条件によるものだろうか。 神話の共有が150人という親密な集団の人口最大値を超えた規模の集団の維持に役立ったという進化心理学 者ロビン・ダンバーの説はここにも当てはまるだろうが、本節では神話的思考の中核をなす、霊魂が存続するという観念の起源を考察した哲学者ダニエル・デネットの議論を見ていきたい。 デネットは、人類が死をめぐって情緒的な反応を示し、弔いの儀礼を行ない、死後も存続する霊魂の観念をもつようになったのは、高等動物に本能的に具(そな)わっている「指向的構え」を人類がきわめて高度に発達させたことを条件としていると考えている(『解明される宗教進化論的アプローチ』)。 哺乳類や鳥類の一部は、生き物とそれ以外とを識別し、生き物である相手の動きを読む。イヌもカラスもライオンもシカも、目にした別の動物が一定の見方で周囲やこちらを見ていることを知っている。 そしてその動物もまた、自分の欲求に合わせて合理的に振る舞おうとしていることを知っている。相手の意図(指向)を読む(インテンショナル)というこの無意識的なスタンスが指向的構え(intentional stance)だ。
◆葬儀の場で、故人の知人たちが言う「これであいつも喜んでいるさ」 人間の場合、この指向的構えは非常に高度になっており、「相手がこう思う」のみならず「Aが「Bがこう思う」と思っている」とか「思っているふりをしている」とか二重三重四重の意図のベクトルをたちどころに把握する。 この構えは生まれながらの強力な衝動であるので、過剰に働くことがある。たとえば一緒に暮らしていた親しい他者が死んでしまったときがそれだ。 その他者が今や生きた存在として目の前にいないというのに、記憶に焼き付いたその存在が今どう思っているか、私にどうしてほしいか、私のやることをどう思うかと考えることをすぐにはストップできない。 人類学者・認知科学者のパスカル・ボイヤーは、この点を直観的に分からせてくれるものとして、次のような例を挙げている(『神はなぜいるのか 』)。 葬儀の場で、故人の知人たちが「これであいつも喜んでいるさ」などと口々に言う。すなわち、「友達が集まってくれたので(あるいは立派な葬儀を営んでくれたので)さぞかし死者も喜んでいるだろう」というのである。 あいつが死んだことは、誰もが百パーセント分かっている。しかし、あいつが生きているかのように語ったとしても少しも変だと思われない。 不謹慎な冗談と受け止められる心配もない。感覚的にごく自然なのだ。
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