アヘン戦争によって、中国人が今も抱え続ける「西洋に騙された」というトラウマ
中国人にとって近代は「暗い時代」として記憶されている。19世紀の半ば以降の清朝は、アヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争・日清戦争と、列強諸国の侵略に繰り返し打ちのめされ、国家としての尊厳を大きく損なうことになった。特にアヘン戦争は、悲惨な「近代」をもたらした忌むべき端緒として認識され、現代でも中国人の行動原理に大きな影響を与えている。書籍『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)より解説する。 三国志やキングダムは好きだけれど、現代中国は嫌になったあなたへ...「中国ぎらいのための中国史」 ※本稿は、安田峰俊著『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。
現代まで続く中国の愛国主義の歴史
満洲族の征服王朝だった清朝は、18世紀後半に極盛期を迎え、旺盛な拡大活動によって台湾や新疆を含むユーラシア東部の広大な範囲を支配した。外モンゴルを除いた清の最大版図は、現在の中華人民共和国の国土の領域とほぼ一致する。 彼らの統治は、長寿の皇帝だった乾隆帝の末期から徐々に緩んだ。ただ、19世紀初頭の清のGDP(国内総生産)は世界経済の3割以上を占めていたとみられ、最強の帝国としての存在感は健在だった。地大物博を誇る中国は、ヨーロッパ船の来航を南方の広州一港に限定して許可する管理貿易体制を敷いていた。 そんな中国から、茶や絹織物を購入していたのがイギリスである。対してイギリスが中国に売っていた人気商品の一つが、英領インド産のアヘンだった。 結果、中学校の社会科でもお馴染みの、英・清・印の「三角貿易」が成立する(実態は教科書の図式とはやや違うようだが、ここではひとまず一般に理解されやすい説明をしておく)。 当時の外国人商人の間では、広州の正規の港湾を通じた貿易は各種の税負担が重いため、非正規港を利用して納税をスルーする小規模貿易が常態化していた。ゆえに、少量でも利幅が大きいアヘンはこの手の密貿易に向いた商品でもあった。アヘン戦争前夜の1838年には、年間で約4万箱(約40万人分)ものアヘンが中国に流入していたという。 一方、1830年代の清国内では銀高による不況が起き、清朝はアヘンの密貿易による銀流出がその原因であると判断する。そのため朝廷は、欽差大臣(特命全権大臣)の林則徐を広東に派遣し、アヘンの摘発強化と没収アヘンの大量焼却といった措置を取らせた。 ただ、ここで対外トラブルが起きる。林則徐は一連の政策のなかで、広州のイギリス人商人にアヘンの持ち込み禁止の誓約を求めたのだが、商人側はこれに強く反発。イギリスの対中国貿易は停止状態に陥ってしまった。激怒したイギリスは、事態を打破するために砲艦外交に訴えることを決め、1840年に戦端が開かれた――。 これがアヘン戦争である。やがて、清朝の政策方針の一貫性のなさと火力の差、従来の長い太平からくる軍事戦略の稚拙さや対外戦争の経験の薄さ、満洲族支配への反発や密貿易の利益のために英軍に協力した漢民族の続出といった数多の要因が重なり、清は惨敗する。 1842年、清は南京条約を結ばされ、香港を植民地として割譲させられたほか、広州・福州・厦門・寧波・上海の五港を開港。従来の管理貿易体制を解体された。後年、現代中国を代表する都市に成長する香港や上海の歴史も、事実上このときからはじまる。 やがて、アメリカやフランスも同様の条約を清に押し付けた。中国は治外法権の容認と関税自主権の喪失という、19世紀の西洋列強諸国がアジアの各国に仕掛けたお馴染みのパターンに絡め取られることになった。14年後に勃発したアロー戦争でも清が敗北したことで、この構図は固定化する。 ちなみに、敗戦当時の清朝は、事態の深刻性をさほど認識していなかったといわれる。西洋諸国と結んだ不平等条約も、かつての匈奴やモンゴルが中華王朝の北辺に侵攻したときと同様、皇帝の徳にまつろわぬ化外の民への「恩典」のように考えていた節があった。 アヘン戦争は、そんな清朝にとって「気の毒」な事件だった。イギリス側の開戦理由は、議会でも根強い反対論が出るなど道義的な正当性に疑いがあった。清朝がオウンゴールを重ねた結果とはいえ、砲艦外交に屈した結果、国際ルールを十分に理解しない状態で不利な要求を呑まされた構図もあった。 その後、列強諸国は徐々に、清朝を与しやすい相手だとみなし、要求を積み重ねていく。彼らは「近代」を通じて、手練手管を用いて中国を騙し、国土を蚕食し続けた――。加害者の主役は、19世紀のうちは英仏米露、20世紀前半には日本である。 一方、中国側でも知識人を中心に危機を自覚する人が増えた。彼らは強い被害者意識を抱くと同時に、自国の「弱さ」が侮りを招いたのだと考えるようになった。現代まで続く中国の愛国主義の歴史はこうして始まる。 それが中国にとっての近代だった。