アヘン戦争によって、中国人が今も抱え続ける「西洋に騙された」というトラウマ
西側は中国を陥れようとしている
時代がずっと下って1989年、六四天安門事件が起きた。中国共産党が人民解放軍の武力を使い、体制改革を求める民衆のデモを鎮圧した事件だ。 事件後、党が盛んに主張したのが「和平演変」という概念だった。これはアメリカをはじめとした西側諸国が、基本的人権や議会制民主主義、自由主義といった美辞麗句を隠れ蓑に、武力を用いない方法で党体制の転覆を目論でいるとする国際認識である。天安門の学生デモは、アメリカなどの外国勢力に扇動された反革命暴乱だったとする説明がなされ、事件直後にはそうしたプロパガンダが繰り返された。 事実、天安門事件前夜の中国国内では、西側各国のマスコミや情報機関が活発に活動し、一部はデモ隊を助ける行動を取っていた。学生グループには当時イギリス領だった香港から膨大な寄付金が流れ込み、運動の中心人物の亡命にも、アメリカや英領香港・フランスが大きく関与した。加えて当時は、東欧の社会主義体制が雪崩を打って崩壊しはじめた時期だ。和平演変の懸念は一定の根拠があった。 だが、中国の警戒心には別の理由もあった。天安門の民主化デモを応援した「西側先進国」は、かつて国土を蚕食した帝国主義の列強諸国とほぼイコールだったからだ。 各国が「近代」に立ち戻り、結託して再び中国を陥れているという認識は、単なる妄想では片付けられない説得力があった。デモは外国勢力の扇動だったとするプロパガンダを、庶民のみならず元参加者の学生の一部ですら信じ込んだのは、そうした事情ゆえだった。 ただし、当時のこの考えはほどなく薄れた。武力鎮圧の当事者である鄧小平が、経済開放の継続を主張し、後継者の江沢民や胡錦濤も中国社会の自由化や国際化を進めたからだ。経済発展一辺倒のムードのなかで、西側企業の対中投資は歓迎され、WTO(世界貿易機関)の加盟や北京オリンピックの開催誘致を背景に国際協調が唱えられた。 江沢民時代の2002年の党大会では、のちの習近平政権のスローガンになる「中華民族の偉大なる復興」がはじめて唱えられた。だが、この時点では世界に伍して中国を豊かにしていこうという、明るい掛け声としての意味合いが強かった。 次の胡錦濤時代になると、西側的な「自由・民主・人権」の概念を人類の普遍的な価値観(普世価値)として認めて、中国もそれを受け入れようという「攻めた」意見まで力を持った。一時は政権もこれを容認しかけたほどだ。 結果的に「普世価値」の受け入れは保守派の反対で却下されている。また、チベット問題などで国際的な批判を受けるたび、中国が西側諸国に強く反発するのは相変わらずだった。 ただ、社会の民主化や自由化を外国の陰謀だと考える和平演変論が、存在感を弱めていたのは確かである。少なくとも、中国のまともな知識人は積極的に論じなくなっていた――。