アヘン戦争によって、中国人が今も抱え続ける「西洋に騙された」というトラウマ
コロナ対策に「失敗」した欧米を見下して得た自信
しかし、2012年秋以降、こうしたユルい雰囲気は一変する。 習近平の総書記就任が決まった第18回党大会から、「普世価値」に代わって「社会主義核心価値観」という中国(党体制下の中国)の独自の道徳が提唱され、街にプロパガンダ看板があふれるようになったのだ。 先進的な部分は西側諸国の方法も受け入れつつ、自国を立派にするという往年の姿勢も、中国自身のやり方を変えずに西側を追い抜く姿勢にスイッチする。中国が国際社会に合わせるよりも、強い中国に国際社会の側が合わせるべきだと開き直る風潮も強まった。 言論の自由の範囲が縮小し、メディアが党の礼賛一色になったことで、自国の正しさを確信してしまう国民も増えた。とりわけ中国人に自信を持たせたのが、2008年(胡錦濤時代)の世界金融危機と、2020年のコロナ禍の際の欧米諸国の混乱だ。 かつて仰ぎ見ていた諸国のぶざまな振る舞いを見た中国人には、当時の中国政府の対策のほうがよほど優れているように感じられたのである(もっとも、ゼロコロナ対策は2022年に破綻してしまうのだが)。 一方、自信とともに頭をもたげたのが不安である。 強くなった中国を邪魔するため、西側諸国が陰謀を企てているという被害妄想が生じたのだ。二〇一八年ごろから、アメリカが中国の台頭を警戒して米中対立が強まったことで、この不安はいっそう強まった。 習近平政権は西側諸国について、ゼロ年代に東欧諸国で起きた再民主化運動「カラー革命」(顔色革命)の扇動を、中国でも企図していると宣伝している。和平演変の現代版である。「2019年の香港デモはアメリカの扇動で起きた」「新型コロナウイルスはアメリカから流入した」など、被害意識を煽る陰謀論的なプロパガンダも盛んに流された。 結果、その影響を強力に受けているのが近年の中国人だ。 中国の庶民の大部分は、コロナのアメリカ起源説を現在でも信じている。 日本の福島原発の処理水排出についても、客観的データから安全性を確認できるにもかかわらず、中国当局は対日不信感を煽る情報発信を続けた。そのため、庶民が福島県内の民間の商店に嫌がらせの国際電話を掛けるような「意味不明」な行動に出るようになった。「中国版のポリコレ(政治的正しさ)」に反しているとして、中国の世論が「辱華」(中国への侮辱)を外資系企業の広告などを理由に吊し上げる現象も、根はこれと同じだ。 2019年の香港デモの時期、ティファニーの中国法人が、モデルが右目を隠したポーズの写真広告を使った(当時、香港の反体制派の間でたまたま似たポーズが流行していた)ことで批判されるなど、第三者の目には理解しがたい現象が多発している。 強国アピールと被害者意識を過度に強調するプロパガンダを通じて、人々が「自家中毒」を起こした結果だろう。自国が強くなったことで、かつての暗黒の近代の復讐を果たしたいという党の思考が、巡り巡って庶民を暴走に駆り立てている。 こうした中国社会の気質を風刺した「大嬰児」(大きな赤ん坊)という言葉がある。中国はすでに巨大な強者なのに、主観的意識としては近代のいじめられっ子のままで、都合のいいときだけ弱者ぶって世界に向き合うようになったというわけだ。 禍福は糾える縄の如し。 イギリス商人の密貿易からはじまったアヘン戦争は、約180年後にワガママ放題の大きな赤ん坊国家を生むという、誰も予測できなかった結果をもたらしている。
安田峰俊(紀実作家)