「賀川さんですか、賀川です」賀川浩さん生きていれば100歳の誕生日に思い返す、絶対に忘れられない告別式
サッカーのワールドカップ(W杯)10大会取材の実績が評価され、2015年に日本人として初めて国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した元サンケイスポーツ編集局長(大阪)の賀川浩さんが5日、老衰のため神戸市内の病院で亡くなった。99歳だった。 健在ならば、29日が100歳の誕生日。予定されていた関係者による誕生日を祝う会は、先日偲ぶ会として開催された。 サンスポ紙上での観戦記を担当していたご縁もあり、12月8、9日の通夜、告別式に参列した。元日本代表監督・岡田武史氏(68)らサッカー界の歴々が参列した通夜の夜は斎場に泊まることにした。賀川さんは独身で家族がいないからだ。あいさつは長年のビジネスパートナーだった喪主と、甥の賀川進太郎さん(63)=弁護士=が務めた。進太郎さんの話が興味深かった。 進太郎さんは賀川さんの兄・太郎さん(享年67)の長男。太郎さんは賀川さんの2歳年上で、神戸一中(神戸高)から神戸大に進み、田辺製薬でプレーした。日本代表に選ばれ、日本サッカー殿堂入りするほどの名選手だった。息子の進太郎さんによると「豪快。お酒も歌も好きで毎晩、人を呼んで宴会をしていた」とのこと。弟の浩さんは学究肌でお酒もやらない。「たーやん」「ひろし」と呼び合い、とても仲は良いが、性格は対照的だった。 ある日、親戚が集まって兄を中心にワイワイやっていると、弟が難しい顔で電話帳を広げ、電話をかけ始めた。 「賀川さんですか? 賀川ですが…」 賀川という姓はそう多くないので、一族のルーツを調べていたのだ。産科医療の発展に尽くし、胎児の母体中で頭を下にしていることを世界に先がけて発見したことで知られる「賀川玄悦(かがわ・げんえつ)」という江戸時代の名医から授かったのでは…と仮説を立て調査。旅先でも電話帳を借りてきて「さあ、やるぞ」とその土地にいる賀川さんに片っ端から電話をかける。事情が分からない人が電話口に出ると「分かる人は何時に帰ってきますか」と確認して、再度電話する徹底ぶりだったという。 「まさにあの姿もジャーナリストでしたね」と進太郎さん。