「賀川さんですか、賀川です」賀川浩さん生きていれば100歳の誕生日に思い返す、絶対に忘れられない告別式
日本中の賀川さんに電話取材した。ところが、仮説を立証できるところまではいかず「賀川という名前は珍しいから多分どこかでつなっているんやろう」という、あいまいな結論になったそうだ。気になったら、とことん調べないと気が済まない性分だからこそ、W杯に10回も取材に行ったんだ-となぜか合点がいった。
9日の告別式で進太郎さんのあいさつが終わると、芦屋市内の火葬場まで一緒にいった。骨になった賀川さんにまたビックリさせられた。両足のふくらはぎ、太ももの骨が4つ、かなりしっかりとした形で出てきたのだ。骨太な記者人生を送っていた賀川さんらしいなあと思った。
杖は必要だが、車いすを借りることもなく、90歳を過ぎてもかくしゃくとした姿で歩いていた。とはいえ、100歳近い年齢の人の骨が、これだけしっかり出てくるのはあまりないことのようだった。幼少期から坂道の多い神戸で過ごし、選手としてボールを追い、サンスポの記者になってからは自分の足で世界中を駆け回って、94歳で日本代表を神戸のノエビアスタジアムで取材した。これが国際サッカー連盟(FIFA)会長賞ライターの足の骨か…と思ったら、胸がギューっとなった。天国でも学生の頃のようにボールを蹴ってほしいし、まだまだ書きたい記事もあっただろうから、両足とペンを持つ右腕の骨は多めに拾って骨壺に納めた。
賀川さんは旅立ったが、神戸市中央図書館にある賀川サッカー文庫は、引き続き運営される。寄託されている多くの貴重なサッカー関連資料を手に取ることができる。入り口には賀川さんが取材したW杯の取材パス、プレスチケットなどが展示されており、その横に王様ペレのサインボールが置いてある。
聞けば、日本サッカー協会から託され、文庫に収め切れない文献がまだ段ボール79個あり、関係者が保管しているそうだ。晩年を過ごした兵庫・芦屋市内に第2賀川サッカー文庫ができれば…という待望論も聞いた。
1924(大正13)年生まれで甲子園球場と同い年。FIFAが命名した「オールドマスター」の足跡をたどる旅は、昭和100年に入っても終わりそうにない。(元サッカー担当、サンスポ文化報道部長・大澤謙一郎)
■賀川 浩(かがわ・ひろし)1924(大正13)年12月29日生まれ。神戸市出身。神戸一中、神戸大、大阪サッカークラブでFWなどでプレーし、天皇杯準優勝も経験。52年産経新聞社入社。サンケイスポーツ(大阪)編集局長を経て、定年退職後の90年からフリー。日本サッカー発展への功績が認められ、2010年に日本サッカー殿堂入り。15年にW杯10大会取材の実績を評価され、日本人で初めてFIFA会長賞を受賞。少年育成も手がけ、日本初のサッカースクールとなる神戸少年サッカースクール、神戸フットボールクラブの創設にかかわる。