「大蔵省の責任を書かないという選択肢はなかった」山一証券社長は大蔵省から含み損の「飛ばし」を示唆された…“ミンボー専門”の42歳の弁護士が「調査報告書」に込めた思いとはー平成事件史(18)戦後最大の経営破たん
当時、「飛ばし」の受け皿となっていた会社の元経理部長は、TBSのインタビューにこう証言した。 「期中でみれば、とんでもない株式が期末にはどこかへ飛んでいく。外に出す書類には一切、出てこない。評価損のある株式の受け皿をみつけるのは、証券会社の営業マンで、社長も知っている話だから、安心して受けてくれと言われた」 損失は、バブル経済崩壊により株価の低迷が続いた結果、最終的には山一が買い取らざるを得なくなった。そこで、今度はその損失を「ペーパーカンパニー」や「海外子会社」に移し替え、「粉飾決算」をしていたというのが、実態だった。 「飛ばしをやっていくうちに、株がどう処理されたか、わからなくなっていった。何度かやっていくうちに、心配はないという感触を得てしまい、頭も使わない、実におかしいやり方だった。また次の「飛ばし先」がなく、猛烈な損失が出ている株式を抱え込むようになった」(受け皿会社元経理部長) こうした危機的な状況を多くの山一首脳が知ってはいたが、損失の処理を決断できずに「見て見ぬふり」をしていたのだ。最高実力者だった“山一のドン”行平や、“山一のプリンス”三木はどう考えていたのだろうか。 もし山一証券が、破たんを食い止める機会があったとすれば、それはいつだったのか、国広はこう指摘する。 「そもそも損失が生じるような営業をしなければよかったと言えますが、すでに、損失が生じていたことが前提にすれば、やはり最終的には、1995年に実施するはずだった『千葉県船橋市の研修センターでの役員合宿』がラストチャンスだったと思います。ここで、全部をさらけ出していれば、違った展開になった可能性はあるのでは」 「もちろん、大きな犠牲は伴い、非常に痛い目に遭う。例えば大赤字の決算で、リストラも避けられない。経営陣が総退陣など、いろいろあったかもしれないが、公表するという判断はあったのではないでしょうか。そこ(1995年)を超えたら難しいと思います」
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