「大蔵省の責任を書かないという選択肢はなかった」山一証券社長は大蔵省から含み損の「飛ばし」を示唆された…“ミンボー専門”の42歳の弁護士が「調査報告書」に込めた思いとはー平成事件史(18)戦後最大の経営破たん
最終的に国広は「東急百貨店問題」について、大蔵省側のヒアリングはしてないという但し書き、注釈をつけた上で、最終的に5ページにわたって項目を立てて展開した。 そして国広は最後の文章をこう締めくくった。 「なお本件については、その後、大蔵省からは何らの問い合わせ、検査等も行われていない」 ■「とんでもない株式が期末にはどこかへ飛んでいく」 違法な「利回り保証」に端を発し、顧客の損失を引き取る判断をして「あてのない相場回復」を待ちながら、山一証券の「簿外債務」は拡大し続けた。 しかし、その間に、何度も損失を開示しようという動きもありながら、その都度、同社の経営サイドがつぶし、問題の「先送り」が繰り返された。 1990年代の半ばにかけて、一部の役員も「簿外債務」の存在を知ることになる。 1993年8月13日、山一証券は専務ら8人の首脳が秘密会議を開き、表の帳簿には書いてない「ペーパーカンパニー」などを含めた損失について、対応を話し合った。 しかし、結論は出なかった。 報告書によると、出席者はこう証言する。 「会議で一括償却の話が出たが、どうやってやるのか、誰にも答えがなかった」 「決算も状況も微妙で、経営の判断としては『先送り』するしかないだろうという内容で、その場の雰囲気もそうだった。会議の主旨が何であったのか、疑問に思った。わが社特有の、結論の出ないファジーなままの会議だった」 1995年になると、役員の一部から「すべてを明らかにして、徹底的に議論して対策を立てるべき」という意見が持ち上がったという。 そこで常務以上の役員を対象にした、泊まり込みの会議が千葉県船橋市の研修センターで計画されていたという。しかし、当時社長だった三木のひと言で、会議は実現しなかった。 「現状の経営体力では厳しい。まだやめておいう」(三木) 山一は、経営破たんを食い止める可能性があった最後の機会を逃し、「飛ばし」によって生じた「簿外債務」を隠し続けることになる。損失が表面化することを避けていたのである。
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