「大蔵省の責任を書かないという選択肢はなかった」山一証券社長は大蔵省から含み損の「飛ばし」を示唆された…“ミンボー専門”の42歳の弁護士が「調査報告書」に込めた思いとはー平成事件史(18)戦後最大の経営破たん
特捜幹部が言ったように、1998年3月28日の一審判決、東京地裁の金山裁判長は、行平には執行猶予のついた「懲役2年6か月」を言い渡した。 ところが、三木には執行猶予をつけずに「懲役2年6か月」の実刑判決を下したのであった。 金山裁判長は、会長だったドンの行平よりも、行平に抵抗しなかった社長の三木の方が罪が重いと判断したのである。(のちに二審で三木にも執行猶予が付いた) 「問題解決を先送りしたため、会社は自主廃業することになり、被告人らの行為は強い非難に値する」(金山裁判長判決) その三木は調査チームのヒアリングに誠実に応じ、真相解明に全面的に協力した。しかし、行平からの証言は得られなかったという。その後、2人が財界の表舞台に再び立つことはなかった。 話を戻す。1997年8月11日、「総会屋」小池隆一事件の責任を取って、行平前会長、三木前社長ら11人の役員が総退陣、社長を引き継いだのは専務の野澤正平だった。 野澤は「行平ー三木ライン」から「社長を押しつけられた」という被害感情もあった。 なぜなら、野澤が「約2600億円」の「簿外債務」の存在を初めて知ったのは、社長就任から5日後の8月16日だった。「自主廃業」の3か月前だ。常務で企画室長の藤橋から知らされた野澤は、ショックでしばらく立ち上がれなかったという。 立て直しを託された野澤は、問題の矢面に立ち、忙殺されることになる。ただちに、会社の生き残りをかけて、危機回避に動き出す。まず10月6日にメインバンクの「富士銀行」に「約2,600億円」の含み損を報告し、救済を求めた。 野澤は併行して、スイスの金融大手「クレディ・スイス」との提携も模索した。山一証券は「クレディ・スイス」が東京証券取引所の外国部に上場した時の主幹事をつとめ、親密な間柄にあった。そうした関係からも外資では本命と見られていたが、交渉は実らなかった。 (「クレディ・スイス」は2002年に東証上場廃止)
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