「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(3)~元号の世界的位置づけ~ 独自の紀年法を持つことの重要性
母国語は不滅、世界共通語は変化
この自国の紀年法と世界共通紀年法の関係は、母国語と世界共通語の関係にも似ている。 日本人は先進国の人々の中でも極めて英語が下手である。しかし、英語が下手だからといって、日本語をやめて現在の世界共通語である英語に国の言語を変更したらどうかという意見は、第2次世界大戦後はともかく、最近ではほとんど聞いたことがない。第2次世界大戦後のアメリカ軍を中心とする占領軍のもとでも、日本語を廃止して英語にすることは結局できなかった。現在の状況は英語を小学校から教えることで、世界共通言語としての英語に少しでもなじませようとする方向に動いている。その根底には、母国語である日本語と世界共通語である英語の二本立てが望ましいという考え方がある。 英語がいまのように世界共通語として使われるようになったのは、第2次世界大戦後からに過ぎない。それ以前は、フランス語が世界共通語として使用されていた。また、さらに遡れば、200年以上前は、西ヨーロッパ世界ではラテン語が共通言語として使用されていた。東アジアでは、漢文による文書を交換することで、日本、中国、朝鮮、ベトナムの人々が意思疎通、意見交換を行っていた。母国語は不滅であるが、世界共通語は常に変化するのだ。 日本は明治以降、母国語である日本語を近代学問ができる言語に錬磨することで、近代化を成し遂げてきた。20世紀初めまで発展途上国であった日本が、先進国の仲間入りができたのは、母国語による近代化のたまものである。母国語である日本語で、たいていのことが事足りるシステムを構築したので、日常生活は言うに及ばず、数学・物理・医学・哲学・歴史等々、あらゆる学問分野で日本語による研究が可能な日本語文化を作り上げてきた。必要性から考えても、そんなに簡単に英語ができるようになるわけがないのである。(拙論「西洋史学はディシプリンか―母国語による近代化の上に成立した世界的にユニークな学問」『西洋史学』(2015、260号)306~319ページ) 私は、国際会議で親しくなったイギリス人に、「英語が世界共通言語になってしまい、残念ですね!」と語りかけることがある。ものの分かっているイギリス人は、私のいわんとすることを察して、はっとする。私が伝えたのは、「一つの言語しか使用できない環境は、さぞつらいでしょうね」ということである。 私は歴史理論を専攻している。この分野の共通言語は英語である。スペイン人、フランス人、イタリア人、ロシア人、中国人などと英語を介して議論をしてゆくと、おもいもかけない思考や発想が出てきて、とにもかくにも興味が尽きない。 明治以来日本人は、主として英語を介して西洋文化を受容してきた。最初はすべて、日本語に翻訳して受容した。おかげで、日本語は思考言語、学術言語として、高度に錬磨され、ノーベル賞受賞者まで出すようになった。しかし、第2次世界大戦後、世界の共通言語がフランス語から英語に移行すると、今度は、英語で会話できることが、エリートの条件のようになった。以前は、英文を日本語に翻訳して理解する技術の習得が英語教育であったが、今の英語教育は、英語を英語のまま理解する技術の習得に重点が移ってきた。 しかし、英語を世界共通言語と呼ぶことの前提には、世界各国がそれぞれに使用している自国語が存在することを、忘れてはならない。