ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その2)
人間は「業内存在」
南:土着性という概念は、むしろ僕は「業」に近いのかなと思います。 「共業(ぐごう)」と言うんですけれど、元々の意味は自然環境やその共同でつくった「業」。共同の「業」です。僕はそれを拡張して、「共同業」という言葉を別につくって、言語とか制度までそこに含んでいますけど、人間は営みの中で生活の場をつくり、ひとつの文化をつくっていく。それが人間を拘束するでしょう? 「土着内存在」みたいな感じで(笑)。 その意味において人間は「業内存在」、あるいは「業的存在」だと思うのです。だから土着性を拡張して考えれば、人間とは業的存在なのであり、いろんなものを生まれながらにして、あるいは生活の過程で負っていく存在だということになります。というか、むしろ負わざるを得ない。問題は、負っているという事実を自覚したときにどうするのかということで。 たしかに人間を拘束するものは時代によって変わってくる。しかしやっぱり、新たな土着性と言えるようなものは,今のこの時代にもあるような気がします。あれだけ若い人間がちっちゃいタブレットを見て、いわゆるメタバースみたいな空間の中にいる。ああいうことをずっとやっているということは、彼らにはあれがある種の土着性になっているんじゃないか。つまり、もうそれが「業」になっている、そんな気が今はしています。 もはや昭和の土着性とは違うんです。 ただ、仏教の基本思想は諸行無常だから、このままどんどんと科学技術が進んで、人間の意識や存在の仕方が変わったとしても、それを必ずしも悪いとは言えないという問題が・・・・・・(笑) 諸行無常で今の自分のあり方にたいして根拠がないということなると、どう変わったってかまわないじゃないかという理屈だって成り立つでしょう? そうすると、もう人体だって改造し放題でかまわないじゃないかみたいなことにさえもなってしまう(笑)。最近、これに悩んでるんですよ。 問題はですね、仏教の場合、困るのは、最終的には人間の存在が消滅したっていいじゃないかというのが、あり得るじゃないですか。なぜ人類は存続しなきゃいけないんですかと聞かれたときに、絶対に存在しなければならないとは言いづらい。 ニルヴァーナっていうでしょう? でもそんな無茶苦茶なことを理想にして生きている人は誰もいないわけです(笑)。それに経典のどこを読んでもニルヴァーナは結構なことだなんて書いてない。ただ、「まったく消え去ることだ」みたいなことが書いてあるだけで。だから、困ったなーと思って。「人類は別にいなくなったっていいじゃん」ってとこまで行ってしまうと、倫理もへったくれもないじゃないですか。 ハイデガーには倫理を直接テーマにした論文はあるのでしょうか? 轟:ハイデガーに言わせれば、「規範」として設定されたものすでに後付けでしかない。「存在」に従う、あるいは「存在」を気遣う。つまり「存在」を大切にする、そこに帰着するのではないでしょうか。 南:そうすると、たとえば、そのほうが便利で楽になるからというので人体を改造して違う存在様式にしてしまうという方向には否定的にならざるを得ないですよね? 轟:そうですね。それは「もの」の存在を「そのもの」たらしめないという意味で、究極の存在忘却の態度でしょう。 南:でも、存在しないといけないのでしょうかねえ(笑)。 (おわり) *
轟 孝夫(防衛大学校教授)/南 直哉