ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その2)
「土着性」
轟:1つ質問してもいいですか? ハイデガーは「ハイマート“Heimat”」、「故郷」ということを強調します。つまりハイデガーが関係性について述べるときには、土着性と言いますか、自分が生きている場所、そういうところに帰って行けという話になるんです。「そこで働く」ということが、ある種、「存在」を体現するみたいな。 仏教でも「縁起」と言うとき、それは土着性の評価に繋がるのでしょうか? 南:僕個人の見解では無視できるはずがないと思います。 仏教には「器世間(きせけん)」という言葉があります。さらには「正報依報(しょうぼう えほう)」という考え方もあって、「正報」は自己存在で、それに「依る」は、寄りかかる、これは環境世界のことです。だから抽象的な問題でないことだけは確かです。土着性と言えるかどうかはわからないが、人間が存在する、きわめて具体的な場を含んでいる。やっぱりそこは否定できない。 「縁起」は抽象的な問題ではないんです。ここからは僕の考えですが、「自己」と言われる側は、「他者」と言われる側よりも、つねにやや遅れてるんですよ、関係の開かれ方において。まず、生まれるという事実がそうじゃないですか。デリダがただ単に「差異」と言わないで「差延」と言ったのも、そこら辺に知恵があったんじゃないかと素人ながらに思うんです。「実存」というのは遅れる。つまり、人間の関係というのは、「遅れ」として、そもそも裂開するんだと思うんです。 そうすると、「自分がそこにいる」と言うときには、もうすでに最初に何かが立ち現れてしまっている。そして先立つものがある以上、そのありようは無視できない。そうなると、土着性にどれだけ近いかはわかりませんが、自己そのものとしてあるわけではないし、他者そのものとしてあるわけでもないということになれば、自己があるということは、必然的に「世界-内-存在」としてしかあり得ない。そしてそうである以上、その世界に土着性があることは間違いないと思います。 じゃないと、そもそも修行が成り立たない。托鉢に行ってご飯もらわなきゃいけないですし、叢林に行ったら耕さなきゃいけない。掃除もしなきゃいけない。そうすると、まるっきり抽象的な関係性しかないなんてことはあり得ない。 たしかに『中論』で展開される議論はきわめて抽象度が高いし、華厳哲学や天台の法華の哲学も抽象度が高い。しかしながら、宗教である以上、具体的な人間の実存に引きつけて考えざるを得ない。とすれば、土着性と言われるものがわれわれに決定的な契機を持っていることは間違いないと思うんです。 轟:ただ、ハイデガーみたいに、農夫や職人の評価には繋がらないですよね? 南:どうでしょう。道元禅師が中国に行って評価した典座(てんぞ)というのは米を搗(つ)いてる人ですから。だいたい普通、思想書に、どうやってトイレに行ったらいいかとか、どこを洗ったらいいかってことは書かないですよ。 たとえば「洗面の巻」、この顔の洗い方というやつを何回かやっているんです。ということは、そうした「生きている人間」の具体的な行為への非常に強い関心があったに違いない。そうなると、土着性という言葉とはちょっと違うかもしれないが、「人間が具体的に生きている場」というふうに考えれば、どう見たって無視しているとは思えない。むしろたいへん重要視しているんじゃないでしょうか。それとの関わり方で、人のあり方が決まるという意味において。 たしかに農夫とか職人に直接、言及しているところはないんです。ただ、生活する行為に対しては、一貫して強い関心があったと思います。職人とか農夫をハイデガーが「いい」と言っている同じことを違う言い方で言っているのではないでしょうか。 轟:行為によって「縁起」が証されるということですね? 南:そうじゃないと、修行道場で「こうしなきゃいけない」「ああしなきゃいけない」って、あんな面倒な決まりはつくりませんよ。もうね、僕、実際会ったら、あんな粘着質タイプの人、好きになれないですよ! (笑)。 僕やったことがあるんですよ、トイレの入り方っていうのを。書いてある通りにやったらですね、行って戻ってくるまでに30分以上かかった(笑)。そんなの、間に合わないですよ! (笑)。 でも、具体的な生活の場における行為が「縁起」だというふうに考えると、なぜあんなに強調するのかがよくわかる。それは、具体的な生活の中で丁寧に生きていかなきゃいけないということで、むしろハイデガーの考えと、まったく重なると思います。