『光る君へ』武闘派貴族で“天下のさがな者”だった藤原隆家が大活躍した「刀伊の入寇」の顛末
■ 大宰府で眼病治療をしていた隆家を襲った「緊迫の状況」 隆家といえば、かつて兄の伊周(これちか)とともに「長徳の変」という、花山院に矢を射るというとんでもない不祥事を起こしている。 失脚した後に京に戻ってきた隆家が、なぜ大宰府にいるのか。それは目の治療である。尖ったものが目に刺さり、その傷から細菌に感染し、化膿を起こしてしまったらしい。 眼病を患ったことを藤原実資(さねすけ)に相談したところ、「九州の大宰府に宋の名医がいる」と聞かされて、隆家は大宰権帥への任官を希望したという。アドバイスをした実資自身が『小右記』につづっている。希望通りに大宰権帥に任ぜられて、隆家は大宰府へと渡ることになった。 ドラマでは眼病もすっかり良くなり、生き生きと過ごす隆家の姿が描かれた。大宰権帥としての隆家の任期は5年で、その5年目に「刀伊の入寇」が起きている。実際の隆家もドラマのように、すっかり土地に馴染んで生活を楽しんでいたことだろう。 さて、事件について報告を受けた大宰府は解文(報告書)を作成。飛駅使、つまり早馬を都へ送っている。それと同時に『小右記』によると、実資のもとに隆家からこんな私信も送られてきたという。 「刀伊国の者、五十余艘、対馬島に来着し、殺人・放火す。要害を警固し、兵船を差し遣はす。府、飛駅言上す」 (刀伊国の者50余艘が対馬島に来着して、殺人・放火を行っています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅で言上します) 簡潔な報告がかえって緊迫した状況を雄弁に伝えている。実資がこの書状を受け取ったのは、4月17日のことだったが、4月7日には、対馬・壱岐に続いて、賊船は筑前国怡土郡(いとぐん)にも上陸。49人を殺害し、216人を拉致している。さらに、志摩郡と早良郡にも侵攻するという事態を招いていた。
■ もし大宰権帥が隆家ではなく行成だったら…? 被害が拡大する中で、隆家は最前線で指揮をとり、異民族に立ち向かう。 博多の警護所を直接襲撃しようとした異国軍に対して、隆家らはこれを撃退。さらに強烈な北風で上陸できずにいる賊船にも襲いかかり、朝鮮半島の方へ撤退させることに成功している。 勢いに乗って大宰府の兵船がさらに追撃しようとすると、隆家は「日本国境に限って襲撃せよ」と命じたという。ドラマでは、隆家のこんなセリフでそのときのことが描写された。 「もし敵が島を出たら、とことん追いかけて追い払え! ただし、対馬より先に進んではならぬ。対馬の先は高麗の海だ。そこまでいけば、こちらから異国に戦を仕掛けることになる」 自ら勇猛果敢に戦うことで自軍を鼓舞し、さらに後追いし過ぎないようにブレーキをかける。隆家の判断がさえわたったおかげで、日本は異民族を撃退することができた。 実は隆家が眼病を患い、大宰府への任官を希望したときに、同じく藤原行成も「大宰大弐になりたい」と希望していた。行成を手放したくなかった道長によって、隆家の方が大宰府に送られた経緯があった。 隆家が辞任した後は、後任として行成が大宰権帥を兼ねることになる。もし、道長が最初から隆家ではなく行成の大宰府行きを決めていたり、もしくは異民族の侵攻が1年後であったりすれば、行成が異民族の対応を行ったことになる。そうなると、かなり厳しい状況に追い込まれたに違いない。 何も行成が頼りないわけではない。「天下のさがな者(あらくれ者)」とも呼ばれた武闘派貴族の隆家でなければ、ほかの誰であっても「刀伊の入寇」という異常事態を切り抜けることは難しかっただろう。 異民族の軍が兵を退却するのを見届けると、隆家は「異国人は去りました」という書状を実資に送っている。大宰府行きを勧めた実資としてもほっとしたことだろう。