鎌倉時代の女性リーダー・北条政子、夫・頼朝への激情と静御前への慈悲
■ 夫の怒りを機知に富んだ話しで鎮めた それともう1つ、政子は頼朝に語り聞かせています。「貴方が石橋山に出陣している時、私は独り、伊豆山に留まり、貴方の安否を知らず。日夜、魂が消えるような思いでした」と。治承4年(1180)8月、頼朝は平家方に対し、挙兵。平家方の軍勢と、石橋山(現・小田原市)において合戦するも敗北を喫します。 政子は、その時の、頼朝の身を案じる想い、恋しい人を想う女性の普遍的な気持ちを伝えたのです。静御前が、義経を慕う舞いを舞ったのは、当然のこと。貞女(貞節を固く守る女)というべき静御前を褒めてやってくださいと、政子は夫に過去の逸話を交えつつ、伝達したのでした。頼朝は、これ以上、怒っても自分がみっともないだけと思ったのか、政子の言葉に感じるものがあったのか、怒りを鎮めます。そして、着物を静御前に褒美として与えるのでした。 夫の怒りを機知に富んだ話しで鎮めた政子。サッとこのような話が浮かんだということだけでも、頭の良い女性であることが理解できます。頼朝との恋愛の逸話からは、政子の激情と一途さが分かります。そして、不幸な身の上の静御前を庇った行動からは、政子の慈悲を感じることができるでしょう。 静御前は、文治2年(1186)閏7月に、義経の子供(男子)を鎌倉で産みました。頼朝は生まれた子が女子ならば、静御前の手元に置いておく積もりでした。しかし、男子ならば、殺すと決めていたのです。非情ではありますが、その子が成長し、自らに刃向かってくることを恐れたのです。少年時代に伊豆に流され、長じてのち、平家を打倒した頼朝だからこそ、余計に、義経の子(男子)は赤子のうちに殺さねばならぬと思ったことでしょう。 頼朝は冷徹な権力者の思考回路になっていたのですが、それに異を唱えたのが、またもや、政子でした。政子は頼朝に、静御前が生んだ子を殺さないで欲しいと嘆願したのです。政子は妻であると共に、頼朝との間に子供がいたので、母でもありました。静御前の夫(義経)を想う気持ちに共感したように、政子は今度は、子を想う母(静御前)の気持ちに寄り添ったのです。 しかし、政子の嘆願は受け入れられず。静御前が生んだ男子は、殺されてしまいました。政子の願いといえども、こればかりは受け入れるわけにはいかないという頼朝の断固とした決意が窺えます。
濱田 浩一郎