伝統の嘉穂劇場コロナで経営難 報道陣大挙した“おふくろさん騒動”振り返る
由緒ある劇場に取材陣の喧騒
飯塚の駅からタクシーに乗ると運転手がバックミラー越しにカメラを持った筆者を見やって「嘉穂劇場だね」と、一言。私がうなづいたのを確認するとそのまま発進する。「森進一でしょ? 朝からお客さんみたいな人、もう何人も運んでるんだ」 いかにも伝統ある芝居小屋という風情の嘉穂劇場に到着すると、ムービーカメラやスチルカメラ、ペンを持った各社の取材陣が劇場前にあふれるようにつめかけていた。筆者もその一人になるわけだが、あらかじめ公演を鑑賞する約束を取り付けていたので人混みをかき分けるようにそのまま中へ入った。場内は約1200人の観客で満員だが年齢層高めの人々の姿が目立ち、静粛な雰囲気。遠巻きに筆者のようなメディア関係者の姿もちらほら、といった状況だった。 やがて公演開始、森が姿を現すと待ってましたとばかりに声が上がる。歓声というよりも応援の声と言ったほうがしっくりくる。森は冒頭、『冬のリヴィエラ』を披露したあとのMCから声をつまらせ目頭をおさえ、ファンの温かい声援に「もう(最初から)涙目です」と心情を吐露。一連の騒動について「私の不徳の致すところです」と謝罪し、しばらく曲を封印することを宣言した。そうして森は『おふくろさん』オリジナルバージョンも歌うことなく公演を終えたが、森が歌う童謡『ふるさと』に合わせ観客ほぼ全員がペンライトを振る美しい光景が印象的だった。
森は取材陣まいて劇場から“脱出”成功
公演終了後、森を出待ちする間に劇場から出てきた観客をつかまえて話を聞く。当時59歳だった森の、恐らく親のような年齢と思われるご婦人は涙を流しながら「『おふくろさん』は歌えないけど、別にそれだけの歌手じゃないからね。ぜんぜん大丈夫」と、公演を観て感激した様子だった。 しかしその後20分経っても30分経っても、森は出てこなかった。劇場正面や裏手の駐車場などに分散し待ち構えていた取材陣も焦りが募ってくる。筆者は単身現地に乗り込んでいたので、「あっちから出てくるんじゃないか」「向こうが怪しいぞ」と乱れ飛ぶ情報に劇場の周りを何周も駆けずりまわることになった。結局森はうまく取材陣の目をくらまし、劇場から“脱出”することに成功したのだった。 騒動初期は楽観的ともいえる余裕を見せることもあった森だったが、時間の経過とともに事態の深刻さを認識するにつれ川内氏に直接謝罪するため都内のホテルや青森の川内邸に赴くなどの行動をとった。しかし結局、川内氏とは会えずじまいで関係は修復されぬまま、2008年4月に川内氏が他界。その後、11月に川内氏の遺族を代表する形で長男の飯沼春樹氏が同席のもと会見を開いた森は、遺族の了承が得られ和解できたことを報告。森は『おふくろさん』をはじめ封印していた川内氏の楽曲の歌唱を解禁した。