平安時代「オバサン」って何歳からだった?まさかそんなに若くて「おばあちゃん」扱いとは【NHK大河『光る君へ』#29】
紫式部を中心に平安の女たち、平安の男たちを描いた、大河ドラマ『光る君へ』の第29話が7月28日に放送されました。40代50代働く女性の目線で毎話、作品の内容や時代背景を深掘り解説していきます。 【画像】NHK大河『光る君へ』#29
平安時代において40歳の女性はおばあちゃん扱いだったの!?
平安時代における平均寿命についてさまざまな説があるものの、40歳前後ともいわれています。また、40歳まで生きられる人が少なかったことからも、40歳は老境と考えられていたそう。貴族の中には老後に入るとされる40歳に出家する人も多くいました。女性の中には髪を肩のあたりで整えて尼になる人もいました。 とはいえ、道長の妻・倫子のようなたぐいまれな存在もいます。彼女は40代にしてもなお美しさを保っていたといわれています。現代においても、黒木瞳さんや松田聖子さんのように60代になってもミニスカートが似合い、歌って踊れるチャーミングな女性が存在しますが、倫子も彼女たちのようなタイプだったのかもしれません。 さらにおどろくべきことに、倫子は44歳で嬉子を産んでいます。当時において出産は現代と比較にならないほど大変で、リスクがあるものでした。彼女は90歳まで生きたといわれているので、当時において並外れた健康な身体だったのでしょう。 令和において40歳前後といえば、まだまだ若いとされる年齢だと思います。高齢出産ではあるものの40代になってから妊娠出産して母になる女性、新しい仕事をはじめる人、パートナーとの新しい生活をはじめる人は多く存在します。30代は自分の人生の方向性が分からなかったけれど、40代になり自分らしい生き方がようやく見つかり、スタートを切れたという女性も多いはずです。
詮子の40歳を祝う「四十賀(しじゅうが)」とは?
本放送では、 詮子の40歳を祝う儀式・四十賀(しじゅうが)が盛大に執り行われていました。 平安時代、40歳まで無事に生きたことを祝う四十賀という祝いの儀式がありました。40歳以降は算賀が10年ごとに行われ、親族や縁者が集まり祝福していました。 本放送における詮子の四十賀のシーンは華やかで美しいものでしたが、史実においても詮子の四十賀は豪華だったと伝わっています。当日、一条天皇、道長一家、諸卿が土御門第(つちみかどどの)に集まりました。 最大の見どころはいわ君(頼宗)と腹違いの兄・たづ君(頼道)の童舞でした。ちなみに、たづ君(頼道)の母が倫子、いわ君(頼宗)の母は明子です。 たづ君(後の頼道)は『蘭陵王』、いわ君(後の頼宗)は『納曾利』を見事に舞ったと伝わっています。本放送では、巌君(渡邉斗翔)の舞の方が一条天皇から高く評価されていましたが、史実においても彼の舞が一条天皇の心をより動かしました。 ここ最近の『光る君へ』において詮子は体調が悪い状態が続いており四十賀も病に伏せる中で執り行われましたが、実際の詮子もこの時期は体調がよくなかったようです。 詮子は四十賀が催された約3カ月後にこの世を去ります。彼女は当時の政権を握る藤原家の娘であるがゆえに心痛むような経験を何度もしています。しかし、日本初の女院の地位を得、息子を帝にし、弟の道長を縁の下で支え続けました。詮子が一条天皇や道長に与えた影響は大きく、彼女の存在がなければ日本の歴史はいくらか違っていたかもしれません。 本記事では、40歳を祝う「四十賀(しじゅうが)」についてご説明しました。 ▶つづきの【後編】を読む▶ 『光る君へ』29話にも登場した貝合わせ(貝覆い)とは、どんな遊び?
アメリカ文学研究/ライター 西田梨紗