300年を乗り越えてきた島商 11代目に刻み込まれた「機を見るに敏」
新規事業の参入も引き際も決断が早い企業遺伝子
まず、島商の歴史をひもといていきましょう。1716年の創業当時は提灯や蝋燭、行燈の油など生活必需品を販売する小売店でした。明治時代に入ってから、ランプ用の灯油、菜種油、胡麻油などを卸売りする問屋に転身します。 そして、1917(大正6)年にライジングサン石油(後のシェル石油)の販売組合「東京貝印揮発油組合」の設立に参加。その特約店として大きく躍進します。島田さんは「当時の国内の自動車台数は全国で数千台。激増するのは、昭和に入ってからなのです。モータリゼーションを予見した私の曽祖父の先見の明に舌を巻きます」と言います。 その後1923(大正12)年の関東大震災が襲います。島田家は家屋だけでなく、家族と店員のほとんどを失ってしまったのです。数少ない生存者の一人が、9代目・増次郎(当時18歳)。彼は絶望的な状況にも負けず、事業を再興。その後、第二次大戦になり、戦時中は石油・油糧配給公団の指定店となり配給業務に専念。 「戦後、祖父(増次郎)は、東京大空襲で焼失した、東京都中央区日本橋小網町の店・倉庫を再建。シェル石油、日清製油、竹本油脂の特約店として再出発。そして、1966(昭和41)年に『スーパーマーケット シェルガーデン』を自由が丘に開店したのです」。 これは、ガソリンスタンドに高級スーパーとレストランを併設した、当時まだ珍しかった商業施設。連日、人がやってきて経営は順調。 「しかし、1983(昭和58)年、祖父と父・孝克は撤退を決めます。その直後に激安ブームが到来したのです」。そのまま事業を続けていては、価格競争で負けていたかもしれません。島商は、機を見るに敏で、参入も時代の先を読み、引き際の決断も早い。これが企業遺伝子でもあると島田さんは言います。 時代を読み、会社を牽引し続けてきた祖父も父も、島田さんを後継者として接したことがありませんでした。 「そもそも、家で“跡取り”という言葉は聞いたことがありません。私が幼い頃、父はスーパーに出勤しており、“お店で仕事をしている”というくらいの認識でした。家庭環境も穏やかで、家業の話は出ませんでしたね」と振り返ります。 ただ、就職活動が始まる頃、父から「別に継がなくてもいいのだけれど、ウチの家業は油問屋、ガソリンスタンド、小売店への卸売業だ。就職先はそういうことも考慮してみてはどうだろうか」と提案されます。今まで、まったく言われなかったからこそ、気持ちが家業に向いたと当時を振り返ります。