「フェミニスト、ゲームやってる」近藤銀河さんインタビュー 安全に失敗できるから「可能性 」がある
ゲームの面白さは「失敗」にある
――フェミニストとしてゲームをやる重要性として、ジェンダー規範が支配する社会で生きること自体がゲームをプレイする感覚に似ていると書かれていました。 ジェンダー規範、異性愛規範などが我々の社会にはあり、「ルールに従え」というメッセージがあらゆる場面で発せられています。同時に、そのルールに従って生きている感覚を持たせないようにもされています。「すごく自由だよ」と言いながら「ルールに従え」とも言ってくる、二重構造の中で差別がなされているのが現実です。 ゲームの場合、ルールがあることが明白なんですよね。だからこの社会で生きている感覚をゲームの中で再現したり演じたりすることには、何か癒されるものがあると感じています。 ――ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』やジャック・ハルバースタムの『失敗のクィア・アート』を挙げながら、「ゲームの中で失敗することは、フェミニストとして重要な経験」とも書いていました。 私はゲームの面白さって、勝利や成功よりもむしろ「失敗」にあると思っています。ゲームの中では安全に失敗できますよね。現実世界で失敗するといろいろ大変ですけど、ゲームなら大したことは起きません。 失敗はルールが破れる瞬間であり、逆にルールを強く意識する瞬間。それは言い換えると、社会の規範を考えることにもつながります。そこにこそマイノリティーの表現の可能性があります。 ――ゲームというと「自由さ」が強調される印象がありますが、失敗することで規範が浮き彫りになるのですね。 ゲームって「自由」を謳いがちですが、そこにはすごく強烈にシステムがあるわけですよね。システムにのっとった上で、プレイヤーはどんな選択をするか強制されています。いろんなストーリー展開がありますが、失敗する時ってそのストーリーが破綻するんですよね。例えば映画だと、マッチョな主人公ってピンチにはなるけど最後は勝利します。でも、ゲームだと、どんなにマッチョなキャラでも失敗して戦闘に負けると死んでしまいます。その時にある種のマッチョさや能力主義が脱臼するように感じて、すごく楽しいんですよね。 だから私は難しいゲームが好きなんです。「エルデンリング」という難しいことで有名なゲームがあるのですが、プレイしていると本当に何百回と死ぬんです。それがすごく楽しい。ゲームクリエイターの宮崎英高さんが作る作品はどれも難しいことで知られています。「難しいことと裏腹の達成感がある」みたいに言われるのですが、私は死ぬのを耐えて達成感を得ることではなく、失敗自体が気持ちいいんだと思っています。 一方で、その失敗が達成感で上書きされてしまうこともあります。それはゲームの難しいところで、もう少し失敗の側面にフォーカスしてプレイできるゲームがあればいいなと思っています。この点でも宮崎英高作品はよくできていて、ラスボスに勝つと次の瞬間で主人公がナメクジになってしまったりするんです。ストーリーのわけわからなさで達成感を裏切るのがすごく好きです。ただ、これもその「わけわからなさ」が陰謀論スレスレの考察を引き寄せていて、危うさを感じることもあるのですが。