身体と環境世界の間に拡がる心とは何か? それこそは現代の課題なのだ―田中 彰吾『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』本村 凌二による書評
◆現代人の茫漠たる不安感を示す 日本人にもかなり馴染(なじ)みのラテン語表現にCogito,ergo sum.(私は思う、故に私は在り)がある。近代哲学の祖であるデカルトの語ったもの。心身二元論の立場ながら、自己意識の作用を身体から切り離してしまうのである。しかも、端的に次のように表明している。「私はそこから、自分がひとつの実体であり、その実体の本質なり本性なりは考えることだけにつきるし、またその実体は有るためにどんな場所も必要としなければ、どんな物質的なものにも依存しないことを認識したのです」(「方法序説」白水社) ところで、そもそも中世のキリスト教の文化圏では、霊肉二元論が唱えられた。人々は得体の知れない身体には、理性では制御しきれない活動力があると感じていた。その魔力が人間をふりまわし、そのために神の救済の手にあずかれないという思いがあったのだ。 さて、このような霊肉二元論や心身二元論は、ユーラシアの西部にあっては、一神教が頭をもたげた古代末期から、ほとんど誰もが疑わないものだった。ところが、20世紀のサルトルに代表される実存主義の見方は、欲望の源泉である身体を制御する規範的なものを一掃し、「いま・ここにただ存在すること」の迫真性に向き合わせる。それは「実存は本質に先立つ」という名高い表現になる。この世の生に気づき、何者かになろうと欲し、自らの決意に従って行動すること――その様相に責任が伴うことを含めて、「アンガジュマン」(拘束・関与・参加)という言葉で明らかにした。 しかしながら、このような身体を重視する見方は、すでにメルロ=ポンティの哲学にも表れており、デカルトの考える「身体なき自己」は矛盾に満ちているという。そうすれば、「生きられた身体」をめぐって心身の作用をとらえる視点が浮かびあがる。さらに、サルトルやメルロ=ポンティと同時代の英哲学者ライルもまた、「機械の中の幽霊」と称して、底流をなしていた心身二元論を批判していたのだ。 それらを遡ると、精神分析学のフロイトが現れ、さらにまた19世紀の思想家ニーチェが巨姿をみせる。「自我=外部身体」は「エス=内部身体」から切断されると、身体に流れるエロス的なものとのつながりを失い、「小さな理性」として行動するだけになってしまう。だから、フロイトにとっては、心的トラウマの体験を経て、「二つの身体」を統一し、ニーチェの言う「大きな理性」を取り戻すことが大切になる。本書の副題が“「大きな理性」の行方”となっているのは故なきことではないのだ。 戦前戦後にフランスの人種差別を体験したF・ファノンにとって、評価も判断もつかないまま自己を不確かに眺める――このことが自己身体の「付き合いにくさ」と結びつくという。 メルロ=ポンティは、19・20世紀の思想の見通しながら、心の科学を根源的に刷新する見方を提示する。人間の意識の原初は、「われ思う」ではなく「われできる」(je peux)という一語になるのだ。ここまで来ると、20世紀末以降の「身体化された自己」をテーマとする近未来の認知科学の問題が浮上する。身体と環境世界の間に拡がる心とは何か? それこそは現代の課題なのだ。現代人の茫漠たる不安感がより分かりやすくなるのかもしれない。 [書き手] 本村 凌二 東京大学名誉教授。博士(文学)。1947年、熊本県生まれ。1973年一橋大学社会学部卒業、1980年東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学教養学部教授、同大学院総合文化研究科教授を経て、2014年4月~2018年3月まで早稲田大学国際教養学部特任教授。 専門は古代ローマ史。『薄闇のローマ世界』でサントリー学芸賞、『馬の世界史』でJRA賞馬事文化賞、一連の業績にて地中海学会賞を受賞。著作に『多神教と一神教』『愛欲のローマ史』『はじめて読む人のローマ史1200年』『ローマ帝国 人物列伝』『競馬の世界史』『教養としての「世界史」の読み方』『英語で読む高校世界史』『裕次郎』『教養としての「ローマ史」の読み方』など多数。 [書籍情報]『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』 著者:田中 彰吾 / 出版社:講談社 / 発売日:2024年06月13日 / ISBN:4065235197 毎日新聞 2024年7月27日掲載
本村 凌二