きっかけは「ジャパゆきさん」救出 半世紀にわたり女性自立の支援を続ける大石由紀子さん 一聞百見
父親は出征して戦死しており、進路に口出しをするのは母方の親戚が中心だった。「高校を出たら早く嫁に行け」という声が多かったが、英語を勉強したいと岐阜大文学部(当時)の英文学科に進学した。勉強に励む中でも、執刀医に「直接お礼が言いたい」と自力で探した。しかし、すでに終戦で旧陸軍は解体され、執刀医を見つけることはできなかった。
「先生に直接お礼を言えない代わりに、社会貢献をしよう」と意識はするものの、当時は昭和30年代半ば。大卒の女性が社会に出ても選択肢は限られていた。一度就職した事務職では「お茶くみばかり」の日々に嫌気がさし、すぐに英語教員の試験を受け直した。
岐阜の中学などで教員生活を数年続けたが、いつも親戚から聞こえてくるのは結婚話。「親戚の声から早く逃れたい」一心で、神戸にいた「穏やかなタイプ」の叔父に紹介された夫と結婚した。
子供が生まれて間もなく、英語教室を始めた。「共働きなんて少ない時代。『何でそんなことを』と嫌な目で見られた」こともあったが、自分の信じる道を進んだ。その後、女性の自立支援を中心とした社会貢献に踏み出すことにも躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
こうした持ち前の行動力、エネルギッシュさは、日本画家としての活動にも及ぶ。世界有数の規模を誇るスペイン・プラド美術館に作品を出展。フランス芸術家協会が主催する世界最古の公募展「ル・サロン」では2010年から3年連続で「入選」した。「脚に障害を負って始めた日本画が、まさかここまでになるとは」
■電話相談まだまだ続けたい
人身売買や性犯罪などの被害に遭った女性や外国人らの自立支援を続けた末、不登校やいじめなど子供らの悩みにも応じようと、平成12年に立ち上げたのが、電話相談窓口「Oishiサポートセンター」だ。開設当初は自宅の離れで英語教室も経営していたが、寄せられた相談の電話は千件以上。活動費は「英語教室での収益を充て、全て自分持ちだった」と明かす。