きっかけは「ジャパゆきさん」救出 半世紀にわたり女性自立の支援を続ける大石由紀子さん 一聞百見
16年には、国連アジア極東犯罪防止研修所の協力メンバーとして、フィリピン・モンテンルパ近郊の刑務所で、女性の性被害をテーマに講演。少年院も視察した。「貧しさゆえに犯罪に手を染めた少女たちが、『金をくれ』とせびってくる。かわいそうな状況だった」と振り返る。
支援した子供たちが「ユキばあちゃん、ありがとう」と投書したことがきっかけで、2年後にニューズウィークの「世界が尊敬する日本人100人」にも選出された。「自分の活動が報われ、本当にうれしかったですよ」と目を細めた。
■社会貢献の道、左脚の障害が原点
社会貢献の原点は、幼い頃から抱える左脚の障害にある。まだ6歳だった終戦間際の昭和20年、当時住んでいた東京から母の実家がある愛知県豊橋市に疎開中、縄跳びをしていた際に転倒した。左脚太ももの骨が折れて骨髄炎まで発症し、左脚を切断せざるを得ないほどの重傷だった。
戦火が激しさを増して物資も少ない中、手術を手掛ける病院はなかなか見つからなかった。「孫の脚を切断するのは何とか避けたい」という祖父が懸命につてをたどり、何とか旧陸軍の病院で手術できることになった。
繰り返し受けた手術は10回ほど。執刀医らの懸命の治療で何とか左脚を切断する事態は避けることができたが、左脚の自由はきかなかった。家の中で過ごす時間が増え、母の勧めもあって日本画を習い始めた。
学校で体育の授業があってもグラウンドの隅での見学を余儀なくされた。「周りと同じことが自分だけできない。子供時代はやっぱり悩みますよね」。それでも他の子と同じように両足はある。執刀医への感謝の思いは日に日に募っていった。
豊橋の名門・県立時習館高に進学後、参加した校内の弁論大会が人生のターニングポイントになった。「自分は左脚に障害を負っているけども、執刀医のおかげで切断せずに済んだ」「世の中には他に苦しんでいる人がいる。自分もそんな人たちを助けて世の中に役立ちたい」。壇上から大勢の生徒に自ら語ることで、社会貢献の道を意識するようになった。