本郷和人『光る君へ』道長ついに死す。その墓がどこにあるのかというと実は…。<ある病>による視力低下と胸病に悩まされた道長の晩年
◆最晩年を法成寺で暮らした道長 極楽往生を願った道長は、土御門殿に隣接して堂舎を建てました。その中心的な建物が九体の阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂、無量寿院です。 当時は往生を願って、阿弥陀堂が盛んに造られました。 ぼくが好きなのは、福島県いわき市にある白水の阿弥陀堂(国宝)。それから九体の阿弥陀仏がいらっしゃる、といえば京都府木津川市の浄瑠璃寺の本堂(国宝)です。九体の阿弥陀様をズラリと、というのは『観無量寿経』にある「九品往生」の考えに基づくもの。 実に贅沢ですね。道長の無量寿院を最初の例として、記録に残るものだけで30数例が確認されるそうですが、現存するのは浄瑠璃寺本堂一つです。 無量寿院を含むお寺全体は法成寺と名づけられました。道長は最晩年をこの寺で暮らしていました。
◆道長の最期 1027年(万寿4年)10月、彼は不調を訴え、床に就きます。 糖尿病の悪化プラス癌、もしくは感染症と考えられているそうです。 症状は日ごとに悪化。11月25日には彼の身体は無量寿院に移され、12月3日に重態となります。そして重態になった道長の手と、九体の阿弥陀仏の手が糸で繋がれました。 この様子はドラマでも描かれていましたが、青・黄・赤・白・黒の5色をした糸などを自分の手に掛け渡すことで極楽浄土に導かれるとされています。 そして多くの僧たちの読経の声がする中、翌日、道長は62歳を以て世を去りました。
◆道長の墓はどこに? 当時の貴族の通例として、葬式の日時と場所は陰陽師が定めることになります。道長の亡骸は鳥辺野で葬礼の儀式が行われた後に、荼毘に付されました。そして遺骨は藤原北家の先祖たちと同じく、宇治市木幡に埋葬されました。 ただし、ここが現代の私たちとは感覚が異なるのですが、遺骨が埋葬された地点には、当時の人々は関心を持っていないのです。 私たちにとってはお骨とお墓がセットになりますが、古代・中世人は先祖の遺骨をどのポイントに埋葬したか、というについて、意識していなかったようです。 高位高官に昇った藤原北家の人々の墓地群は、現在「宇治陵」として整備がされています。生前の道長は一族の菩提を弔うため、宇治に浄妙寺という寺院を創建していました。 けれどもこのお寺は中世末期には廃絶してしまい、道長を含めたほとんどの人々の正確な葬地は明らかではありません。
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