『光る君へ』ゆかりの地へ!一条天皇や定子・彰子が過ごした京都御所、まひろの氏神・大原野神社…東大・本郷先生と実際に歩いて分かった<事実>とは?
◆昼食会、そして北野天満宮へ それからツアー一行は、京都御所至近の「京都ガーデンパレス」にて昼食を。 昼食後には、本郷先生を中心にしての質疑応答タイムが用意されましたが、そこでの質問の多くが「平安貴族の男女間のやりとり」だったのも、やはり同日に最終回放映を迎えた『光る君へ』の盛り上がりを象徴しているようでした。 昼食会場を出ると、続いて菅原道真をまつった北野天満宮へ向かいます。道真と言えば『応天の門』の主人公ということで、ここも平安ツアーには欠かせません。 史実として、右大臣となった道真は、昌泰4年(901年)に左大臣・藤原時平の讒言にあって大宰権帥に降格。大宰府に左遷されたのち、延喜3年(903年)に無念の死を遂げます。 すると時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、朝廷で落雷などの災害が相次いだりしたため「道真の怨霊による祟り」との噂が広まります。 それで朝廷は、道真が没して20年目となる延喜23年(923年)に道真の左遷を撤回。右大臣に官位を復し、正二位を贈ります。加えて複数の地域で「北野に自分を祀る社を立てるように」との託宣があったため、この地に社殿を造営したとのこと。 ちなみに”学問の神様”道真ですが、自身の成績はソコソコだったそう。国家試験「方略試」もギリギリ合格だった、といった話を先生から聞きながら神社内を散策しました。 そんな解説を聞きながら「それでもしっかり合格するところが、学問の神様として崇拝される理由なのでは」なんてことを、普段からギリギリで生きている私などは考えてしまいますが、バスは続いて清凉寺へ。
◆「光源氏」と関係の深い清凉寺へ 訪れた清涼寺は、「嵯峨の釈迦堂」の名前で親しまれている浄土宗知恩院派の古刹です。本尊・釈迦如来は五臓六腑をもつ“生身の仏”であり、国宝。 そして寺の起源となる山荘を造営した源融(みなもとのとおる)は「光源氏のモデル」と言われているそうです。『源氏物語』のなかで光源氏が建立した「嵯峨の御堂」の位置が、清凉寺境内の東に位置する「阿弥陀堂」の場所としっかり一致するのがその理由とも。 源融がモデルとも言われる阿弥陀三尊像は、秋(10・11月)と春(4・5月)のみ特別公開されるということで、その尊顔を拝むことはかないませんでしたが、紅葉が残る本堂と庫裏をつなぐ渡り廊下などを散策しながら、ここでも『源氏物語』の世界にどっぷりと浸ることができました。
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