『光る君へ』ゆかりの地へ!一条天皇や定子・彰子が過ごした京都御所、まひろの氏神・大原野神社…東大・本郷先生と実際に歩いて分かった<事実>とは?
◆京都御所は天皇の仮住まいだった? 続いて向かったのは京都御所。 京都御所は奈良の平城京から長岡京を経て、桓武天皇が794年に平安京へ都を移したのがその始まりとされています。 現在の京都御所は、1331年に光厳天皇がここで即位して以降、1869年に明治天皇が東京に移るまでの約半世紀、天皇の住まいとして使用されました。この間、幾度となく火災に遭い、現在の建物の多くは1855年に再建されたものとのこと。 なお、火災などで御所を再建することになると、その間、天皇は貴族の邸宅で仮住まいをすることになります。それを「里内裏(さとだいり)」と呼びました。 ですので先生いわく、現在の京都御所も、実は「土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)」という里内裏がもとになっているそう。”土御門”は道長邸として『光る君へ』にもたびたび登場しましたが、つまり道長の屋敷がこの地にあった、ということになります。 一方、もともとの平安宮内裏は天徳4年(960)以降たびたび罹災し、嘉禄3年(1227)の焼亡後からは再建されなかったようです。 修学旅行などを通じて何度か訪れたことがありましたが、このあまりに立派な京都御所が、もともと仮住まいだったとは…。
◆気分はすっかり「公卿」 そうした背景を知ったうえで到着した京都御所。手荷物検査を済ませたうえで、さっそく参観へ。 貴族が使った玄関「御車寄」や、身分によって使える部屋が決まっていたという「諸大夫の間」などを見学しながら、到着したのは正殿「紫宸殿(ししんでん)」。 「紫宸殿」は平安時代からの由緒をもつ正殿で、宮廷の重要な儀式が行われた場所。あの五箇条の御誓文もここで発布されたそう。「紫宸殿」の前には美しい白砂の庭「南庭」が広がり、正殿の格調の高さをより引き立てています。 ちなみに先生いわく、この「南庭」で血を流すのは”ご法度”。万が一、南庭で突然発作を起こして息を引き取るようなことがあっても、とにかく庭の外まで引っ張り出し、外に出てから初めて亡くなったことを確認するハズ、とおっしゃっていました。 それから天皇が日常の住まいとして使った「清涼殿」へ。ここで一条天皇は最愛の定子との日々を過ごし、喪失感の中で『源氏物語』に出会ったのか…などとシミジミ。 続いて回遊式庭園「御池庭」、和歌の会などに使われた「御学問所」などを見学しているうちに、すっかり<公卿>の気分に。 なお京都御所は、事前申し込み不要、入場無料で通年公開を実施していますので(2024年12月現在)、公式サイトをチェックの上で是非足を運んでみてください。
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