美智子さまが「何年にもわたって、誕生日に花を贈り続けた相手」をご存じですか? 上皇ご夫妻にとって大切だった「意外な存在」
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。 【写真】美智子さまにとって「大切だった人物」の写真はこちら この記事では、1960年代の半ば、上皇ご夫妻が、いくつかの喪失を経験したころのエピソードを、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。
旧皇族をめぐるスキャンダル
一九六六(昭和四十一)年の皇室の正月行事も滞りなく終わった一月二十八日、皇室に激震が走った。明仁皇太子の姉・和子の夫である鷹司平通(としみち)が同日夕、千駄ケ谷の「バーのマダム」宅で、マダムとともに遺体で発見されたのだ。死因はガスストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で、二十七日午前四時から五時の間に事故死したとみられた。 平通は交通博物館に勤務していたが、二十六日は自宅に帰らず、二十七日から無断欠勤していたため博物館が捜索願を出していた。旧華族で天皇の娘の夫がバーのマダムと遺体で見つかったということで、事件は週刊誌でスキャンダラスに報じられた。事故死という発表を疑い、心中ではないかという見方もあった。 当人同士の面識がないまま決まった「設定された結婚」で、もともと人とのコミュニケーションに難のあった和子と平通の夫婦仲に問題があったのでは、という憶測も流れた。和子は一度妊娠したが死産しており、二人の間に子供はなかった。明仁皇太子の学友の作家・藤島泰輔は週刊誌に「“デモクラシー”の生んだ悲劇」という一文を寄せた。 「終戦によって雲上人から庶民へ舞い下りた鷹司家と、象徴として存続した天皇家――平通氏が二つの面を併せ持つことになったところに宿命的なものを私は感じる。旧皇族や旧華族が平民になって、皇族だけが孤立した存在になった。これがデモクラシーだといわれればそれまでだが、旧皇族、旧華族というパイプラインがなくなって、天皇家と庶民の間がかえって遠くなったこと、それにデモクラシーの名のもとに女性週刊誌などが執拗に天皇御一家の行動ぶりを追いかけ、天皇御一家はかえって御窮屈になったことが、平通氏の悲劇の根本原因ではないかと私は思う。デモクラシーという言葉の理解が、対天皇家に限って「庶民の好奇心の満足」という形で現れるのは、まったくお気の毒というほかはない」 平通の葬儀が終わったあとの二月十六日、皇太子夫妻は鷹司家を訪れ、和子を見舞った。以後、美智子妃はこの薄幸の義姉に常に寄り添っていくことになる。 二月中旬の新聞に美智子妃が高校生時代に作詞した「ねむの木の子守歌」の著作権を日本肢体不自由児協会に寄付したという記事が載った。礼宮の誕生祝いに市民作曲家が詞をもとに作曲したもので、レコード会社四社が発売を予定していた。レコードは吉永小百合、梓みちよ、西田佐知子、天地総子の錚々たるスターの競演で三月初めから一斉発売されたが、前評判ほどにはヒットしなかった。「庶民の好奇心」はあくまで美智子妃に向いており、詞や曲ではなかった。