美智子さまが「何年にもわたって、誕生日に花を贈り続けた相手」をご存じですか? 上皇ご夫妻にとって大切だった「意外な存在」
大切な人の死
四月八日、浩宮が学習院初等科に入学した。紺の詰襟、桜の帽章の制帽姿の浩宮は皇太子夫妻に付き添われて初等科の門を通り入学式に臨んだ。夫妻は一般の保護者と同じように参列した。皇室の歴史ではきわめて異例だった。浩宮は「東」「中」「西」の三組中の中組。明仁皇太子のときと違い、クラスは男女半々の四十四人で、席は窓側から二列目の前から三番目になった。 翌九日から浜尾東宮侍従と皇宮警察の護衛官が付き添って、徒歩での通学が始まった。初等科は東宮御所から目と鼻の先のため、明仁皇太子の意向で徒歩通学になった。交通規制はいっさいせず、信号の横断歩道は手をあげて渡った。また、入学式では新調した制服だったが、通学が始まってからは、かつて明仁皇太子が使っていた「お古」を着た。 四月二十六日、東宮御所で小泉信三の時事問題の進講があった。明仁皇太子も小泉も、これが最後の顔合わせになるとは夢にも思っていなかった。 小泉は五月二日、長女の加代に伴われて慶應義塾大学病院で心電図を撮影した。ときどき「胸がしめつけられるようなことがある」と口にしていたからだ。このときは異常なしの所見だった。十日夜半、小泉は胸の痛みと苦しみを訴える。間もなく発作は治まって静かに眠った。しかし、翌十一日午前七時過ぎに再び発作が起き、七時半に妻・とみ一人に看取られて息を引き取った。心筋梗塞だった。享年七十八歳。空襲のやけどで眠っていてもまぶたが閉じないので、死んだときはまぶたを縫ってほしいと伝えていたが、そのまぶたはしっかり閉じられていた。 小泉の死は午前九時に当直の侍従から明仁皇太子に伝えられた。書斎で本を読んでいた皇太子はしばらく何の言葉も発しなかった。この日は学習院初等科の参観日で、美智子妃は母親の一人として浩宮のクラスの授業を参観していた。参観中に侍従が訃報を伝えると、美智子妃は動揺を隠せなかったという。 夫妻は午後二時半過ぎに広尾の小泉邸を訪れた。皇族が民間人を弔問したのはこれが初めてだった。夫妻は東宮御所の庭で育てた白バラ、カーネーションなどの花束を霊前に供えた。遺体が安置されている日本間で、とみ夫人が小泉の顔にかけられていた白布を外すと、夫妻は五分ほどの間、身じろぎもせずその顔を見つめていた。美智子妃は一輪の白バラを小泉の胸の脇にそっと置き、ハンカチで目を押さえた。 十三日、クリスチャンだった小泉のため飯倉の日本聖公会聖アンデレ教会でミサが行われたあと、遺体は桐ケ谷火葬場で荼毘に付された。十四日午後には青山葬儀所で葬送式が執行された。当初、皇太子夫妻は一般参列者とともに参列することを強く望んでいた。しかし、警備上の問題があるため断念。午前中に小泉邸で二度目の弔問を行った。 「〔恩人である〕小泉さんの訃報に接した陛下〔明仁皇太子〕と美智子さまのお嘆きは、想像に余りあった。しかもそれにとどまらず、皇室内で孤立を深める美智子さまにとって、ご自分の最もよき理解者であった小泉さんの死は、陛下を別にすれば最大の後ろ盾を失ったに等しいことだったに違いない」と浜尾実は書いている。 後日、明仁皇太子は弔問時の気持ちを短冊に書いた歌をとみ夫人に贈った。 霊前にしばしの時を座り居(を)れば耳に浮かびぬありし日の声 政府は小泉への叙勲を検討していたが、とみ夫人は故人の意志として辞退を伝えた。 小泉の随筆に「戦時の花」という小編がある。戦局が悪化していた一九四五(昭和二十)年一月、花屋に花を買いに行ったことを書いたものだ。「戦争のこの危急の段階に妻の誕生日に花屋に花を買いに来たということが何か攻撃を無視した行為のように思われて、それが愉快であった」と小泉は書く。買い求めた花は水仙、白と淡紅(うすべに)の花をつけたあらせいとうと淡紫の小花のむらがり咲くエリカだった。 小泉が他界した翌年の夫人の誕生日、小泉家に水仙とあらせいとう、淡紫のエリカの花束が届けられた。贈り主は美智子妃だった。明仁皇太子と相談の上だったのかもしれない。この贈り物はその後何年も続けられた。美智子妃は翌年の小泉の一周忌に歌を詠んだ。 ありし日の続くがにふと思ほゆるこの五月日(さつきび)を君はいまさず 六月七日、小泉の後を追うように安倍能成が死去した。この年の二月末から入院中だった安倍を小泉は死の前日に見舞っており、「〔小泉は〕お別れに来てくれたようだね」と安倍は沈みがちに語っていた。皇太子、常陸宮の両夫妻は同日、やはり異例の弔問を行った。明仁皇太子の青年時代を支えた教育者二人がこの世を去った。皇太子はもう助言者なしで、自身のあり方を考えていく時期になっていた。 明仁皇太子が支えとするもっとも大きな存在は美智子妃だった。ただ、妃はまだ懊悩から脱し切れていなかった。神谷美恵子との面会は続いていた。神谷は田島への手紙で面会の様子をつづっている。 「妃殿下にお目にかかる度毎に、お悩みのお打明け話が多くなり、どうしてさし上げたらよろしいのか思いあぐねますが、私の立場と致しましてはたゞ「はけ口」となること、そしてできれば相対的な現実を超えた世界にやすらぎを発見されるようにおさそい申上げることのみかと存じております」(四月十八日付け) 「お目にかかります度毎に、せきを切つたようにるるとしてお悩みをお話になり、それが次第に多くの時間を占めるようになりました。朝おき出せないほどの憂うつにも屢々(しばしば)襲われになることを伺いまして、何とかしてさし上げたいと先日考えた次第でございます。〔略〕妃殿下の最大の悲劇は「孤独」でいらつしやることのように思われます。お悩みはもちろんのこと、たとえば詩とか文学とか、ご関心のふかい題目についても気楽に話合える相手がいない、と先日仰せでございました」(四月二十一日付け)
井上 亮(ジャーナリスト)