島田珠代「夫のがんで、娘と離れて暮らした10年。携帯で、洗濯物に埋もれて放心している娘を見て泣いた日」
吉本新喜劇の看板女優として36年間、芸の道を走り続けてきた島田珠代さん。舞台の第一線で活躍しながら2度結婚、2番目の夫との間に娘を授かったものの、夫ががんに。愛娘と離れて暮らした10年間とその後を、初の著書『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』に綴っています。「おばちゃんダンス」「パンティーテックス」など、とことん明るい芸風からは想像しがたい波瀾万丈の人生について、涙ながらに語ってくれました。 (構成◎岡宗真由子 撮影◎本社 武田裕介) 【写真】亡くなられたご主人と、娘さんとの3ショット * * * * * * * ◆大好きな人との子どもに恵まれて… 本を書くつもりはなかったのですが、娘とのことを『徹子の部屋』や『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』でお話しした後の反響が大きくて、「これを聞いて慰められる人がいる」と、編集者の方に背中を押されました。当時は限られた人以外にお話ししていなかった娘と10年間、離れ離れに暮らしていたことの経緯です。まだ割り切れていない思いがあるからなのかわかりませんが、お話しするたびに涙がたくさん出てしまいます。 ―島田珠代さんは17歳の頃、ダウンタウンの人気番組『4時ですよーだ』の素人参加コーナーで2度の優勝を果たして吉本入り。以来「色恋は芸の道の邪魔!」と仕事一筋だった珠代さんですが、26歳の頃、吉本興業のマネージャーだった男性と結婚。多忙ゆえのすれ違いの末、離婚を決意しましたが、もう一度新たな結婚の縁が巡ってきます。 36歳の時、名古屋の連ドラの現場でハマ・オカモトさんに似た元夫と出会って恋に落ちた私。「この人の子どもが産みたい」と思って結婚を決めました。テレビ局で美術スタッフをしていた彼は、仕事場での評判も良い優しい人です。大好きだった彼との間に38歳で娘を授かることができました。 ところが娘が8ヵ月のころ、夫が大腸がんにかかっていることが発覚します。その時点で余命5年を宣告されてしまいました。夫は余命を延ばすためにも手術をして人工肛門を装着することに。今考えると夫はまだ若かったですし、肉体的にも精神的にも極限状態だったと思います。辛い抗がん剤治療も始まり、穏やかな性格だったのに機嫌が悪い日が増えて、喧嘩をふっかけてくることも多くなりました。それに対して私は真っ向からぶつかって、自分も彼と同じように怒り狂ってしまった。 今考えると、彼の精神不安定はお薬の影響がとても大きかったのです。ご家族や大切なご友人が抗がん剤治療を受けるという人は、私のように無知なままでなく、治療の辛さや薬の副作用について積極的に知ってほしいと思います。私といえば、元夫に対して男女の関係が少ないことをなじったり、この後に及んで嫉妬したり、ちっとも彼に優しくしてあげることができませんでした。 乳飲み児を抱えての自宅療養生活だったので、子育てに関して私は近くに住む母に頼っていました。手を貸してくれる私の母に対しても、彼は容赦無く当たり散らすことがありました。スーパーのお惣菜を買ってくると、「お母さん、唐揚げは家の揚げたてを食べるものじゃないんですか」と冷笑を浮かべながら言ったそうです。母は泣いていました。お金がなくなったことを母のせいだと勘違いするという認知症に似た言動もありました。この時、母が辛かったのはもちろんですが、今思うと、彼自身、自分が荒れていることが苦しかったと思います。
【関連記事】
- 島田珠代「些細なことで娘と大ゲンカ。作り置きした食事を食べなくなった。〈ママの役目も終わりなのね〉テーブルに置いたメモに、娘からの返事は」
- とよた真帆「夫・青山真治を見送って2年半。お互い30代で結婚、20年を夫婦として暮らしたパートナーを失った喪失感は今も消えないけれど」
- とよた真帆「夫・青山真治との早すぎる別れ。漠然とした予感はあったが、相手を変えることはできなかった」【2023年間BEST10】
- 間寛平が73歳で語る「使命」。吉本新喜劇のGMに就任。いらだつ日々、ストレスで口内炎だらけに。それでも「やるしかない」
- 宮川大助×宮川花子「余命1週間からの闘い。嫁はんが元気になったら、センターマイクに戻りたい」「慌てず焦らず〈お礼漫才〉に向け、今日を明日を頑張ります」