島田珠代「夫のがんで、娘と離れて暮らした10年。携帯で、洗濯物に埋もれて放心している娘を見て泣いた日」
◆今でも苦しい娘と離れた季節 拗れに拗れてしまっていた私たちは、一つ屋根の下に暮らせるような関係ではなくなっていました。娘が3歳になる頃、元夫は体の自由があまり利かなくなり、自分の地元・名古屋に療養中でも雇ってくれる会社を見つけて、実家に住むことになりました。私は3人で暮らしていた大阪で新喜劇の仕事が毎日のようにありましたから、別居、離婚をせまられることになります。 私も親権を譲らない気でいましたが、夫は「余命僅かの俺から娘をとったら生きていくことはできない、絶対に娘は渡さない」と一歩も引きません。何度も話し合いの場が持たれた末、苦渋の決断で、私は娘を夫に渡すことを選択しました。本当に身を切られる思いというのはこのことで、今でも小さな娘が夫の車の中からこちらに向かって「ママー!ママー!」と泣いていた別れの日の光景が頭から離れません。 それからはひと月に何度か、大阪から娘に会いにいく生活が始まりました。数週間後には会えるのですけれど、別れのたびに娘は周囲の人が誰しも振り返るような大声で「ママ!ママ!」と叫ぶのです。絶叫する娘を元夫がグッと抱いて去っていくという繰り返し。そんな日々の果てに、元夫の世話をしてくれていた彼の両親が相次いで亡くなってしまいました。小学生ながら娘は、療養中の父との二人暮らしになってしまったのです。 私はちょくちょく娘とビデオ通話で話していたのですが、山と積まれた洗濯物に囲まれた娘がぼんやりしながら「ママー、これからこれ全部畳むんだ~」と言っていることがありました。遊びに行ったり、勉強したりもしなきゃいけないけれど、家のことがたくさんある、と娘が言います。私のほうがその光景を見て途方に暮れていました。 「この先どうしたらいいのかわからない」と泣く私に対して母が、「私が名古屋に行くからあなたは仕事を続けなさい」と申し出てくれました。あんなに元夫と折り合いが悪かったのに、母は過去のわだかまりを全て胸の奥にしまって、名古屋の元夫の家で彼と娘の家事を手伝うことを決めてくれたのです。
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