島田珠代「夫のがんで、娘と離れて暮らした10年。携帯で、洗濯物に埋もれて放心している娘を見て泣いた日」
◆中学生になった娘と暮らし始めて 娘は今でも「あの時ばあちゃんが来てくれなかったら、私どうなってたかわからん」と私に言います。元夫は、小学校高学年になりだんだん反抗的になった娘に苛立ち、手をあげることもあったそうです。そんな時には母が間に立って「この子、まだ小さいんですよ!」と夫をたしなめてくれたと言っていました。夫は余命5年と言われた時点から11年の歳月を生き、そして亡くなりました。 娘が中学生になると同時に、私は娘と暮らすことになりました。最初の1年間、色々と張り切っていた私に対して娘は愛想よく「ママの言う通りだね!」と何でも聞き入れてくれていました。私は「親の言うことは絶対」という家庭に育ったので、娘の態度に違和感を覚えることもなかったのですが…。 中学2年になったある日のこと、あれこれと指図する私に対して娘が突如刃向かってきたのです。 「ママは私のことをちっともわかっていない。私が生理になった時も、友達と喧嘩して悩んでいた時も、ママはそばにいなくて、何もしてくれなかった。それなのに一緒に住んだ途端、私に命令ばかりする!」と、娘は泣きながら訴えてきました。私の辞書には親にそんな口のきき方をする選択肢がなかったので、私は娘の肩を揺さぶりながら「誰のために働いていると思っているの?!」と猛反撃。その日からは娘のストライキでした。1ヵ月が過ぎても、口もきかなければ、部屋に閉じこもって目も合わせてくれません。
◆芸人の前に人間なんだ 私は17歳で吉本に入ってから、自分のことを「芸人間」だと思ってきました。「人間」よりも前に「芸人」である、という感覚でしょうか。そんな私が、娘にそっぽを向かれて初めて「もし神様がいて娘との仲を取り持ってくれるのなら、今すぐにでも芸人を辞めるのにな」と思いました。辛いことがあっても、舞台に立てば忘れられたのに、あの時ほど舞台に立っていても、何をしても心に穴が空いたようになっていたことはありません。 楽屋でもうなだれていた私に、同じく娘を持つ先輩芸人である浅香あき恵姉さんが声をかけて、話を聞いてくれました。姉さんには、「娘ちゃんはキツい言葉で言ったけど、小さい子が甘えてるのと同じなんじゃない?表現が違うだけだよ」と言われました。その言葉を聞いて始めて、私は素直な言葉で娘に謝ることができたのです。娘とやっと仲直りできた私が強く感じたことは、自分も“芸人”の前に普通の人間だったんだ、ということでした。「芸人たるものこうあらねば」などという思い込みを捨ててもっと魂を磨かなあかん、そう思ったことを覚えています。 仲直りの後、娘に対して私も自分が悪かったと思うところは頭を下げるようになり、だいぶ関係が良くなっていきました。娘は金銭感覚もしっかりしていますし、おかずを作り置きして食べさせてくれたり、本当に元夫がちゃんと育ててくれたと感じます。思えば彼は娘が生まれたばかりの頃、「君は思いっきり仕事をするといい、娘はちゃんと俺が良い子に育てるから」と言ってくれていたんです。 別々に暮らしている時、私は娘と遊園地や温泉、外食など、笑顔になるような瞬間だけを共にしていました。当時、夫は「夜が大変やねんで」と言っていたのです。身の回りのこと、宿題や学校の提出物、持ち物の確認など、“やらなければいけないこと”を娘と夫でやってくれていました。 私は一見いいとこ取りの子育てをしていたようですが、やはり “絆”というものは面倒なことをする時間に生まれるものなのかもしれません。だから今こそ私は一生懸命、娘との絆を育ててる最中で、やっと母親3年生になりました。一緒に暮らせない月日はありましたが、娘は私ががむしゃらに仕事をしてきたことはわかってくれていて、「私といる時間は普通の人より少ないけど、働いてるママのこと尊敬してるよ」と言ってくれます。こんなふうに娘を育ててくれた夫に、今は感謝しかありません。
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