母との関係に憔悴していた小島慶子さんが得た気づき「自分は幸せになることを大事にしていいんだ」 そこから7年間の断絶を経て再会、母の謝罪に「心が動いた」
「親は大事にしなさい」「きょうだいだからしょうがない」……いまだ日本に根強く残る血縁主義。しかし、それが負担になり、悪影響をもたらしているようなら「絶縁」を考えてもいい。家族と絶縁して、ようやく自分の道を歩み始めることができたという人が、苦悩や葛藤、喜びを明かす。 【写真】ニュース番組に出演するTBSアナウンサー時代の小島慶子さん
母なしでは生きていけず、母の愛を苦しいとも感じでいた
女性アナウンサーが花形とされていた平成の時代。華やかなテレビ出演の裏側で、小島慶子さんは食べては吐くという過食嘔吐を繰り返していた。 心の不安定さの遠因は幼少期にあった。1972年、父の仕事の都合によりオーストラリアで生まれた小島さんは、幼い頃から家族である父、母、姉との関係に心を悩ませていた。 「母は当時としては高齢出産で、輸血が必要なほどの難産で私を産みました。それゆえか母は私への思い入れがかなり強く、自分が子供の頃にできなかったことをすべてやってあげたいと過干渉になっていた。 私も母なしでは生きていけず、母を幸せにできるのは自分だけだと思う半面、母の愛を重い、苦しいとも感じていました」(小島さん・以下同) 15才のときに9才年上の姉が結婚すると、母の関心はますます小島さんに集中し、心労はさらに増した。 「実家の家族はなにかと容姿についてよしあしを言う習慣があり、私は太ることが怖くなって食べては吐くようになりました。摂食障害は大学を卒業してTBSに入社してからも続き、20代の頃は社内の人気のないトイレで毎日のように食べ吐きをしていました」 28才で番組制作会社のディレクターと結婚し、30才で第1子を出産。多忙な育児で摂食障害は治まったが精神的に不安定になり、第2子妊娠を機にカウンセリングを受けることに。すると、蓄積していた怒りが堰を切ったようにあふれ、「自分がしんどいのは実家との関係のせいではないか」との思いが湧きあがった。第2子出産後、33才で不安障害と診断された。 「実家との関係の悩みに加え、2人目を出産して仕事を続けられるのかという不安や産後のホルモン変化、夫婦の問題などが重なって、精神が限界に達しました」
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