韓国「本当の」戒厳令を経験した日本人留学生の回想、軍人によって抑圧された社会のリアル
今、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)政権は「傀儡韓国」と言っています。アメリカの植民地だと言わんばかりの呼称です。今年になって北朝鮮からよく尹錫悦政権を批判するビラが飛んできていますが、当時は朴正熙を批判するビラも飛んでくることがありました。 今はともかく、朴正熙の時代はそれほど南北の対立が激しく、市民生活にもそれが強い影響を与えていたということです。 ――あの時代、反政府を目的とする学生運動の広がりを警戒して大学には休校措置が出された時期がありました。大学内はどのような状況でしたか。
本当に怖かったですよ。どこに公安や警察がいるかわからない。「日本人留学生は監視されているから、会話や行動には気をつけるように。デモといった企てに気づいたら必ず申告するように」と公安関係者からしばしば言われました。 ■大学の学生にもスパイ役がいた キャンパス内でも、例えばクラスの中に1人は、KCIAの息がかかったやつがつねに様子をうかがっていました。何かあれば、そいつが当局に告げ口をするんですよ。 そういうやつはなぜか「洋モク」、当時は禁止されている外国製のたばこを吸っていました。だからすぐに、あいつはスパイもどきだということがわかりました。
また、大学の先生たちの中には「宮塚君、すまない。君をもう指導できない」と言い残し、大学を去ってアメリカへ出国する人がいました。反政府・反体制的な考えの先生たちは大学にいられなかったのです。 こんなこともありました。私が日本から持ってきたマルクス経済学の本をある教授に貸しました。日本に留学経験のある先生だったと覚えています。 返された時、「宮塚君、君が私にこの本を貸したことは絶対に秘密にしてくれ」と言われました。資本論など社会主義、共産主義にかかわる書籍は禁書でした。見つかるとたいへんなことになります。
とはいえ、大学の教授や知識人の中には、左派思想の本などを秘密裏に読んでいる人がかなりいたのも事実です。 ――留学生活も最後のほうになって大事件が起きます。1979年10月の朴正熙暗殺事件、そして1980年5月の光州事件です。 ・朴正熙暗殺事件=1979年10月26日、朴正熙と大統領府警護室長だった車智澈(チャ・チチョル)が、KCIAの金載圭(キム・ジェギュ)部長によって殺害された事件。この事件を処理する過程で、当時軍の保安司令官だった全斗煥が台頭してくるようになった。