「望月の歌」も実資の記録がなければ忘れ去られていた?『光る君へ』では描かれなかった<道長だけが知るあの夜の秘密>とは
◆『望月の歌』の解釈を整理してみる 「この世をば我が世とぞ思ふ」の歌には最近色々な解釈がなされています。仏教思想が生活の基本だったこの時代には、「この世」つまり「世間」も、「我が世」つまり「私の人生」も、変わりゆく移ろいやすいものと思われていました。 一方、「よ」は「世」と「夜」に通じる言葉遊びでもあり、服藤早苗氏が『藤原彰子』(人物叢書 吉川弘文館 2019年)で述べられたようにこの歌はいわばざれ歌、つまり軽めの座興歌として詠われたようでもあります。 実際、勅撰和歌集(天皇が編纂させた和歌集、『古今和歌集』以来室町時代まで二十一種類ありました)はもちろん、道長の歌集『御堂関白集』にも採られておらず、実資が記録していなければ、まさに忘れられる歌だったようです。もっとも道長は、実資なら記録するだろうと計算していたと思いますが・・・。 さて、このように理解すると、上の句は「この移ろいやすい世の中だけど、今夜こそ私の移ろう人生の最高の夜に思える」と解釈できます。 そして下の句「望月の欠けたることもなしと思へば」についても、「十六日なのだから満月ではない」「月は后のたとえであり、満月でなくてもよい」という山本淳子氏の説(『道長ものがたり』朝日選書 2023年など)が出されてから色々な解釈がされるようになりました。 私はこんな風に考えています。 「今日は十六日で満月は過ぎているけれど、私の最高の夜の月、つまり三人の后には欠ける日など来ないのだよ」 山本氏の言われるように、月とは太陽である天皇に対する皇后、三人の后、太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子を、特に今日の主人公である威子を意識したものと思われます。 なぜなら道長は、この後二十二日に行われた後一条天皇の土御門第への行幸を、十六日よりずっと詳しく書いているからです。 この時には後一条天皇に彰子が同行し、東宮(皇太弟)敦良親王(のちの後朱雀天皇)も行啓し、天皇に同行した摂政頼通、前日から来ていた妍子皇太后とその娘の禎子内親王、源倫子と四女の藤原嬉子(のちの東宮妃)も集まりました。 そして道長は「我が心地覚えぬ有生(ありさま)」で「言語につくし難し」「未曽有の事なり」と記しています。天皇に従って参加していた実資も、三人の后の座が例えようもなく美しくしつらえられていたことや、道長が三后の自慢をしていたことを記していますから、よほど嬉しかったのでしょう。
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