一時は経営危機に陥ったファミコンの父・山内溥が「ハードは赤字で構わない」と利益度外視の価格設定を貫いた理由
■ 群雄割拠のゲーム機市場でなぜ「ファミコン」だけ生き残れたのか ファミコンこと「ファミリーコンピュータ」を任天堂が発売したのは、1983年のこと。ここから任天堂の快進撃が始まる。 ファミコンの最大の特徴は、カートリッジを変えることでさまざまなゲームが楽しめること。任天堂がそれまでに出していたテニスゲームなどは、それ以外のゲームができない単機能型であり、ゲーム&ウォッチも同様だった。ファミコンは、ハードとソフトを分離した。これが任天堂にとっては初のプラットフォームビジネスだった。 実は、ファミコン以外にもハードとソフトを分けたゲームはあった。アメリカでは、創業期にはスティーブ・ジョブスも在籍していたアタリ社が、1975年に「Atari2600」を発売。トータル1000万台を超えるヒットとなった。日本でもエポックが1981年に「カセットビジョン」というゲーム機を出している。またファミコン発売同日(7月15日)には、セガ(現・セガサミー)が「SG─1000」というゲームを出している。しかし生き残ったのはファミコンだけだった。 理由の一つは価格。ファミコンの価格は1万4800円だったが、これは山内氏が「親が子どもに買ってあげられるのは1万5000円以内」と考えたためだ。一方、先行したカセット型ゲーム機の価格はおおむね5万円台。これでは勝負にならない。 ただしカセットビジョンが高いわけではない。ビデオゲームは「ゲーム」と呼ばれているが、れっきとしたコンピューターだ。その製造コストを考えれば1万5000円以下はあり得ない。ファミコンも発売しばらくは「本体は売れば売るほど赤字になる」と言われていた。しかし山内氏の考えは、「ハードは赤字で構わない。ソフトで稼げばいい」というものだった。 今でこそ、価格を下げてでも普及を狙うことは一般的になった。しかし、日本では「モノの値段=原価+適正利潤」という考えが続いていた。赤字でも売るという発想は極めて斬新だった。ここに山内氏の経営センスを見てとることができる。 もう一つは、ゲーム機に徹したことだ。当時売られていたゲーム機の中には、コンピューターの機能を持たせようと、キーボードが付いているものもあった。コンピューターユーザー、ゲームユーザーの両方を狙った結果だ。 しかし任天堂は、A/Bボタンと十字型キーが付いたコントローラーのみ。ゲーム以外には使えないが、ゲームとしての使いやすさを優先した。そのため、頭脳になるCPU(中央演算処理装置)も、リコーと契約し独自のものを作らせた。セガのゲームがインテルの汎用品を使っていたのとは対照的だった。だからこそファミコンは、他社のゲームに比べ圧倒的に快適に遊ぶことができた。 そして最後に、自社製人気コンテンツを持っていたことだ。ゲーム事業を成功させるにはサードパーティーと呼ばれる外部のコンテンツ制作会社の協力が不可欠だ。しかしサードパーティーにしてみれば、売れるか売れないか分からないゲーム機をどこまで信用していいか分からない。 その点、任天堂は、アーケードゲームやゲーム&ウォッチなどを通じて、ドンキーコングや「マリオブラザーズ」などのコンテンツをすでに所有していた。これをファミコンに載せるだけで、ある程度の需要は想像できる。 その安心感があったこともあり、ハドソンやナムコ、タイトー、コナミ、カプコンなどがファミコン用ソフトを次々開発、それがファミコンの大ヒットにつながった。 こうしてファミコンは、家庭用ゲーム機という新たな市場を開拓するとともに覇権を握った。しかしこれは、次なるゲーム戦争の幕開けに過ぎなかった──。 (後編に続く) 【参考文献】 『任天堂の秘密』(上之郷利昭著) 「月刊経営塾」(2002年1月号)
関 慎夫