一時は経営危機に陥ったファミコンの父・山内溥が「ハードは赤字で構わない」と利益度外視の価格設定を貫いた理由
■ 任天堂初の大卒理系社員が「ゲーム&ウォッチ」で経営危機を救う 1960年代から1970年代にかけて、任天堂は食品事業、タクシー事業を手掛け、さらにはブームが去ったあとのボウリング場を活用したレーザークレー射撃場事業に進出する。しかしこれらの新規事業はノウハウ不足やオイルショックによる不況もあり、全て失敗する。おかげで任天堂はディズニートランプで得た利益を吐き出し、倒産寸前にまで陥った。 今、任天堂は日本一と言っていいほどの財務体質を誇る。自己資本比率は8割を超え、利益剰余金は2兆5000億円以上で無借金。年間の販管費は5000億円程度なので、単純計算でいけば、5年間何もしなくても会社を存続させることができる。 普通、これだけ財務に余裕があれば、M&Aをやりたくなるものだ。あるいは株主から自社株買いや増配などの要求が強まってくる。しかし任天堂はそうはしない。この方針を決めたのは山内氏で、「経営が厳しい時代、さんざん金融機関にはいじめられた。だから何があっても、会社が生き残れるようにすると心に決めた」ためだ。それほどまでに1970年代の経営危機は山内氏のトラウマとなった。 この危機を救ったのは1980年に発売した「ゲーム&ウォッチ」だった。 山内氏は早くから、「やがて電子ゲームの時代が来る」と見抜いていた。レーザークレー射撃場に進出したのもその一環であり、それ以外にも棒状のラケットを上下に動かしてボールを打ち返すビデオテニスゲームなどの販売も行っていた。それを経てのゲーム&ウォッチだ。 その陰には横井軍平氏という技術者の存在があった。横井氏は1965年入社。任天堂にとって初の大卒理系社員だった。トランプ会社だった任天堂に理系社員は必要なかったが、横井氏は志望する電機メーカーに全て落ちたことで家から近い任天堂を志望し採用された。 山内氏はこの横井氏を面白がって、新規事業を任せることにした。ある程度方針を決めたら、あとは任せきるのが山内流。横井氏は伸び伸びと商品開発に取り組み、その中から時計にゲーム機能を盛り込んだゲーム&ウォッチが誕生した。 その少し前、「スペースインベーダー」が爆発的に人気となるなど、ビデオゲームの機は熟していた。ゲーム&ウォッチは任天堂がアーケードゲーム用に開発した「ドンキーコング」などのゲームを搭載したところ、全世界で5000万台を売り上げる大ヒットとなり、任天堂の経営危機を救っただけでなく、その後のファミコン開発の資金となった。