親からの性虐待の影響で、夫のDVからも逃げ出せなかった。休む間もない子育ての中、徐々に蝕まれる私の前に、かつての自分のような子が現れた
◆DVに抗うことに疲れた 年の離れた息子たちを必死に育てているうちに、元夫のDVにもいつの間にか慣れていた。元夫は、わかりやすい暴力ではなく、言葉や態度で私を幾度となく貶めた。痣が残らないDVは見た目にはわからないのに、痛みは鋭く、深刻なトラウマとなるケースも多い。私も例外なく深い傷を負ったが、ある時期を境に痛みが鈍麻した。痛みそのものは感じる。だが、その痛みは馴染みのあるもので、「痛いけどしょうがない」という独自のカテゴリーに分類される。 「忍耐強い」といえば聞こえはいいが、単に「抗うことに疲れた」だけだった。もっといえば、それどころではなかった。2人の息子を怪我なく事故なく育てること。ふいに襲ってくる記憶と無言で戦うこと。その戦いを周囲に悟らせないこと。それだけで、精一杯だった。 やがて長男が小学校中学年になり、次男が幼稚園に入園した。そこでようやく、私に再び「一人時間」が訪れた。この時点で、記憶を取り戻して数年が過ぎていた。にもかかわらず、細部にわたって驚くほど鮮明に蘇る痛みは健在で、心だけでなく体をも徐々に蝕んだ。その痛みを説明できないまま、私は少しずつ弱っていった。 元夫は良くも悪くも変わらず、毎日真面目に仕事をして、生活費はきちんと入れてくれて、子どもにも愛情を注ぎ、時折ふいに豹変して私を貶めた。 昔に比べたら、大したことじゃない。 その感覚は私を救いもしたし、殺しもした。 真面目に働く夫がいて、元気な息子たちがいて、生活に困窮しない程度の経済状況にある。そのことに感謝しなければバチが当たると、繰り返し私に説いたのは母だった。帰省をやめ、電話を受信拒否にしても、母は私にたびたび長文のメールを送りつけた。その文面には、念仏のように「公務員の夫を手放すな」と綴られていた。 気の迷いで、返信をしたことがある。 「寄生虫、と呼ばれてもですか」 母からの返信はなかった。