90年代に「再発見」された「日本の70年代フォーク」たち…曽我部恵一が明かす、その「特別な魅力」
個人のことを歌うことが、世界のことを歌うこと
――URCの元ディレクターである岩井宏さんの『30才』(1973年)も、「本来の意味での等身大」を強く感じさせるアルバムです。ギターとバンジョーだけのシンプルな音ですけど、その分すぐそこで歌っているような親密さがあって。 曽我部:赤ちゃんを抱えたこのジャケットもとてもいいですよね。前半に話したことともつながってきますけど、自分の生活も歌と一緒に表現に昇華していくって、今でこそ当たり前のようになっているけれど、当時はすごく新鮮なことだったと思うんですよ。 ――みなさん飄々と歌っているように見えて、そこにはある種のボヘミアニズムへの切迫した思いがあったんだろうなと思います。そこが「単にほっこりした日常を歌っている」こととの大きな違いだと思っていて。その辺りを意識した上で聴くと、余計魅力的に感じるんです。 曽我部:本当ですね。 ――よく誤解されますけど、だからといって社会的な意識から逃避しているとか、完全に個の世界に閉じこもってしまっているかと言えば、決してそんなことはないと思うんですよ。 曽我部:その通りですね。個人のことを歌うことが、そのまま世界のことを歌うことなんだと教えてくれていますよね。エンケンさんも「個人を歌うことこそが全てなんだ」といつも言っていました。 ――そういう視点は、他でもない曽我部さんの音楽からも強く感じます。すごく個人的で親密な歌を通じて、社会の姿が見えてくるというか。だからこそ、近年リリースされている音頭モノのように、鋭い批判精神が反映された曲もスッと入ってくるような気がしていて。 曽我部:いやあ、僕は皆さんの影響を受けながらやってるだけですけどね。この時代のレコードを聴くと、未だに教えられることが沢山ありますよ。「歌って、やっぱりこういうことだよなあ」って。 ――背景には、1970年前後の「政治の季節」にまつわる様々な思いが渦巻いていたんだろうなとも思います。その後の時代の流れの中で消費社会の中に埋没してしまうわけだけれど、当時の歌い手たちが「個人」への回帰にどういったカウンター的な意味を見出していたのかを考えることは、今こそ重要なんじゃないかなと思っていて。 曽我部:集会でシングアウトするのとも違うし、個人のメッセージこそが歌なんだという姿勢。みんながシュプレヒコールを挙げている中で、「いや、俺はギターを持って一人で歌うよ」ということですもんね。そこには皆さんきっと強い自負があったでしょうね。 ――その上で忘れてはいけないのは、URCにしてもベルウッドにしても、当時にあってはあくまで非主流、「オルタナティブ」であったということだと思います。 曽我部:今でこそこのあたりの系譜の存在が目立ってはいるけど、ほんの一部の水面下で起こっていたことですからね。立て続けにチャートを席巻したわけでもない。けれど、こうやってずっと輝き続けているし、かえって今になって輝きが増しているとも思います。