新聞・テレビの就職に軒並み失敗し「左翼の巣窟」へ でも仕事のほとんどは企業のPR映画 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<11>
《同世代の作家である石原慎太郎、大江健三郎(けんざぶろう)の小説に衝撃を受けた田原さん。作家志望を諦め、ジャーナリストを目指して早稲田大の第一文学部に入学し直すことになる》 ジャーナリストになるにはまず大新聞社や放送局に入るのがいいでしょ。そこで多くのジャーナリストを輩出した、同じ早稲田大の昼間部である第一文学部を受け直すことにしたんです。勤めていた日本交通公社(JTB)は昭和30年の年末に辞めました。どうせ向いていなかったしね(苦笑)。 ただし、家にカネがないのは変わりありません。学費も生活費も自分で稼ぎ、相変わらず実家へ仕送りまでしていた。家庭教師をはじめ、あらゆるアルバイトをやりましたよ。 下宿ですか? 上京して以来、東京・上野にあった父の姉(伯母)の家に住まわせてもらっていた。大学へは、毎日、国電(国鉄)と都電を乗り継いで通いました。 《卒業が近づき、新聞社やテレビ局の就職試験を受けるも、ことごとく落ちてしまう》 新聞は、朝日や東京。放送局はNHKやTBS、ニッポン放送などなど10社連続でダメ。さすがに落ち込んだなぁ。一般企業ですか? ジャーナリスト志望一本に絞っていたので、まったく受けませんでしたね。 11社目に受けたのが、岩波映画製作所です。元は岩波書店の一部署だったけど、僕が受験した年に、分社化された。面接試験で僕は言いたい放題。待機時間が長いので「昼飯を出せ」と文句を言ったりもしましたけれど、結果はなぜか? 合格でした。生意気なのが、逆に良かったのかもしれません。 《当時の岩波映画製作所には、羽仁進(はにすすむ)、黒木和雄、東(ひがし)陽一ら、後に映画監督として名をはせる顔ぶれがそろっていた。作家の五木寛之さん(92)は後の田原さんとの対談で、当時の岩波映画のステータスは朝日新聞やNHKよりも上だった、と話している》 五木さんが岩波映画のことをよく言ってくれるのはうれしいけど、それはどうかなぁ? 岩波書店の方は確かにレベルが高くて、社員はプライドを持っていましたけどね。 それから岩波映画は、左翼の巣窟でした。でも実際にやっていた仕事のほとんどは、企業のPR映画をつくること。