北斎の冨嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」はどこを描いた?
19世紀末のヨーロッパ印象派絵画の作家に影響を与えた江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)。その代表作「冨嶽三十六景」は海外でグレートウェーブとして知られる「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」をはじめ、一つ一つの作品名に描いた場所が記されているのが特徴だ。 しかし、「駿州片倉茶園ノ不二」に関しては、駿州片倉が一体どこなのか長く判然としてこなかった。様々な説が言われる中、近年になって富士山を背に茶畑で人々が働くこの絵の場所とみられる土地が明らかになってきた。
小学生時代から気になっていた「片倉」
静岡県富士市中野は目前に迫る富士山を除けばありふれた長閑な郊外といった場所で、幹線道路沿いに畑地や住宅、工場、店舗などが点在し、市の総合運動公園などもある。中野の住人にとって富士山は生活に溶け込んでいる存在だ。その中野で生まれ育った元教員の木内陽子さんには、半世紀以上も前の小学生の頃から気にかけていることがあった。それは葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の中にある「駿州片倉茶園ノ不二」という絵のことだった。 「駿州とあるので、静岡県のどこかの風景を描いたのだとは思いましたが、どこを描いたのかわからないということだったんです」と木内さん。静岡県東部にある清水町に徳倉(トクラ)という地名があり、江戸時代は徳倉村だったことから「徳倉を片倉(カタクラ)と間違えたのではないか」と言う説もあった。しかし、木内さんにとって片倉はとても身近な地名だった。木内さんが育った中野は富士市中野という住所だが、江戸時代は中野村と呼ばれていた。そして中野には片倉という集落があり、地域の人たちは片倉を日常的に使っていたからだ。 「駿州片倉茶園ノ不二は自分たちが暮らす地域の風景を描いた絵ではないだろうか?」 小学生だった木内さんの胸にそんな思いがよぎった。しかし、中野と北斎に縁(ゆかり)があるという話は聞いたこともなく、そもそも周囲の人たちがまったく無関心だったので、「もしかしたら」という木内さんの思いは胸の中にとどまったまま歳月は流れていった。 そんな木内さんの秘めた思いが強い確信へ変わったのは、半世紀も経って山梨県の博物館で1冊の図録を目にした時だった。