北斎の冨嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」はどこを描いた?
当初はどこを描いたのかわからなかったが…
東京都八王子市の多摩モノレールの駅に隣接する、中央大学多摩キャンパスの西川広平准教授の研究室。西川准教授は山梨県立博物館、山梨県立富士山世界遺産センターの学芸員を務めた経歴を有している。専門は日本中世史で、富士山噴火の災害史を山梨県側から分析した研究などに取り組んでいる。研究室を訪ねると、デスクの上に一冊の図録が置かれていた。タイトルは「北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景」。図録の奥付には2007年に初版、2010年に第二版が発行されたことが記されていた。山梨県立博物館が開催した特別展で編集・発行したものだという。 「展覧会は私が美術専門の学芸員といっしょに取り組みました。図録はとても人気で(初版は)すぐに売り切れてしまいました」と西川准教授。「展示を2回やりまして、2回目の時に再版したのです。その時に追加できる情報はないか、ということで『駿州片倉茶園ノ不二』について調べました」 第二版の図録の「駿州片倉茶園ノ不二」の項には、絵の解説とあわせて「片倉(静岡県富士市)」として以下の説明が記されている。 『~略~江戸時代、麦・粟・大豆・小豆・芋・茶を生産していた愛鷹山麓の中野村(富士市)の小字に東片倉・西片倉があり、同所から望んだ富士と考えられる』 「冨嶽三十六景は場所や地名をあげて、どこから見た富士ということで描かれています。この絵は駿州とあるから駿河、静岡ということは特定できるけれど、片倉という地名ですね。それが結局、村の名前として江戸時代にはないのです。だからこの図録をつくる前の段階まではどこを描いたのかわからなかった。私も当初、不明と考えていました。しかし、片倉村はないけれど富士郡中野村に片倉という集落があることがわかったのです」 「角川日本地名大辞典」(角川書店)や「日本歴史地名大系」(平凡社)を見ると、中野村には三倉(ミツクラ)や片倉の字(あざ)があることが記されていて、中野村では麦・粟・大豆・小豆・芋などとともに茶も生産されていたと記されている。「今でこそ静岡は茶所でいろんな所でお茶をつくっていますが、それは幕末から明治維新以降に産業育成していった結果です。江戸時代には、今のようにどこでもお茶を生産していたわけではなかった。限られた地域の中で、中野村でお茶を生産していることが江戸時代の記録に出てくるので、富士郡の中野が候補に当たるのではないかと考えて提示させていただいたのです」。第二版の「駿州片倉茶園ノ不二」の項に片倉の説明書きを加えた経緯について、西川准教授はこう説明した。