北斎の冨嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」はどこを描いた?
北斎は現在の富士市で描いたのか
ただ、西川准教授は北斎が見たままの風景を描いたのかどうかはわからないとも言う。 「この風景が本当に江戸時代のこの村の様子というのか、風景としてあったのかというと、それはわからないとしかいいようがないですね。北斎の冨嶽三十六景は、写実的に描くというよりもデザインや構図、そういったものを組み合わせて描いているところがあります。歴史家の立場から言うと冨嶽三十六景は本当の光景とは言いきれない」 「おまけに北斎がすべてオリジナルで描いたのかというとそうではないかもしれない。冨嶽三十六景が描かれた時より半世紀ほど前、18世紀後半に河村岷雪(かわむら・みんせつ)という絵師が百冨士という作品を描いていて、そうしたものがモチーフになっていた可能性もあります。だから北斎自身が写実的にスケッチみたいにして描いたとは断定できないのです。デザイン性とか過去に描かれた百冨士、いわば画集ですね、そういったものから独自につくっていったとも考えられるので、あくまでも美術的な作品として見るべきということだと思います」 「駿州片倉茶園ノ不二」は現在の富士市中野から望んだ富士山を描いた可能性があるが、北斎がその場所に行って見た風景かどうかはわからない。モチーフとなる絵があって、それをデザインして創作した可能性もある、ということのようだ。
川の流れはコンクリートの沢になった?
実際に現地を訪ねてみた。富士市中野にある日蓮宗の寺院、法蔵寺。住職の白木智馨(しろき・ちきょう)さんによると560年の歴史があるとのことだ。本堂の裏に富士山を望む小高い丘があり、そこに小さな祠がたっている。「山の神様の祠(ほこら)です。地元の人たちがお掃除をずっとしてきました」と木内さんが教えてくれた。そして、そこから見た風景を描いたのが「駿州片倉茶園ノ不二」ではないかというのだ。木内さんによると法蔵寺のある場所は三倉だが、裏山から望む一帯は片倉になるという。確かに正面に富士山が見え、眼下に畑などが広がる光景は構図が「駿州片倉茶園ノ不二」に通じている。「駿州片倉茶園ノ不二」に描かれている川の流れは今日、見られないが、伝法沢という沢が今はコンクリートの沢に姿を変えて残っている。 東海道からも離れたこの場所の絵がなぜ冨嶽三十六景の一つになったのだろうか。富士山には遥拝信仰があり、遥拝の地には神社や祠がつくられてきた。法蔵寺の裏山にある祠は、土地の人々がそこから富士山を拝んだことを示す祠なのかもしれない。中野村は江戸時代、富士市内にある六所浅間社、さらに富士山修験とかかわりのある東泉院の領地であったという。富士山信仰と深くかかわる土地であった可能性もある。そして北斎が冨嶽三十六景を描いた背景には江戸の富士山信仰があった。