「外から『家、潰れとる!』と近所の人の悲鳴が聞こえた」能登半島地震で被災した家族の体験
●妹
避難所生活は、とにかくやることがあった。 自分と両親はマルチプレイヤーとしてできることはなんでもやったと思う。
●母
自衛隊が空路から支援に入るようになってからは、毎朝8時にヘリが到着し、灯油や支援物資を運んできてくれていた。 物資が届くと「男性の方、手伝ってください!」と呼びかけがあり、協力しあって運んだり配布を行った。 段ボールベッドや仕切りは備蓄があったようだが、寝返りも打てないほどたくさんの人が避難していたので、設置するスペースがなかったため、出せなかったのだと思う。 今でも思うのは、このような未曾有の災害の際にどうやって身を守るのか、守れるのかということ。自分たちはたまたま運がよかったと思うが、運のよしあしで生死が決まるものなのか、決まってしまっていいのだろうか。どうにか一人でも多くの人が生き延びるための手立てはないのかと、考えてしまう。 どこかで災害があっても、今まではどこか他人ごとだと思っていた自分を恥ずかしく思う。実際に「そのとき」が起きれば、想像の数倍の恐怖とストレスが瞬時に押し寄せてくる。 不平不満を言っている暇もなく、ただただ今を生きることで必死な状況での避難生活だった。その中でも、自分のできること、やるべきこと考え、行動する体力があったこと、ずっと一緒にいて支えてくれた家族にも、感謝しきれないほどありがたい気持ちでいっぱいだ。
●父
みんなを励ます役を引き受けていた。本当に自分も大変な中、被災者が被災者を支えながら避難所を運営していた。 炊き出しを引き受けた人は、並々ならぬ覚悟であったと思う。本当に頭が下がる。 市の職員は一人しかおらず、体育館の壇上で皆で支え合うように呼びかけがあったほどだった。 皆で助け合ったことで、これまであまり交流がなかった人とも親しくなれたように思う。 この前編記事では藤本さんのご家族の被災経緯を教えていただきました。続く後編記事では妹さんが避難所を経験して感じた「必要な準備」についてお話いただきます。
シナリオライター 藤本透