「外から『家、潰れとる!』と近所の人の悲鳴が聞こえた」能登半島地震で被災した家族の体験
●妹
発災後、しばらくたってから、近所の人たちと声をかけあい、余震が続く中、避難所である町野公民館へ移動した。 どこもひどい状態で、倒壊を免れた家屋も中は無事ではなかった。 公民館は、元日ということもあり、開いていなかった。 先に町野小学校が開き、避難所として開放された。 21時ごろになって、離れたところで被災した職員の方が到着した。路面等の問題もあり、徒歩で移動しなければならず、時間を要したものだ。 家族や親戚、近所の人たちと協力して、備蓄してあった水や毛布をみんなに配った。 高齢者優先で配布するように心がけたが。いつの間にか全て配り終えていて、自分たちの分がないことに気がついた。 その後、東陽中学校が開かれ、そこで備蓄の毛布が見つかったので、配布場所を確保し、みんなで手分けして配った。 23時ごろになり、ようやく一段落ついたので、公衆電話に向かった。災害伝言ダイヤルに録音するつもりだったが、親戚からのメッセージは再生できても、こちらから録音することはできなかった。ひとまず姉に、家族の無事と家が全壊し、車もないことなどを知らせた。
●妹
翌日から炊きだしが始まった。水は備蓄があったのかどうかまではわからないが、これは飲める水、これは飲めないので煮沸して使う、などとの説明を受けた。 粟蔵のプロパン店さんがプロパンガスを運んできてくれたので、炊き出し用の大きなガス器具を使うことができた。 豚汁などの調理は町のイベントでやったことがあったが、ごはんを炊くのは初めてで、炊き方が分かる人に聞きながらごはんを炊き、おにぎりを作って配布した。
●母
設置された仮設トイレが段ボールタイプで、職員の方が他にもやることがあるのにこまめに掃除に入っていた。大変そうだったので、話を聞きながら様子を見て、清掃方法を覚えた。仮設トイレは高齢者には 使い慣れないこともあり、2時間くらいで酷く汚れてしまうので、先回りしてこまめに掃除を心がけた。 職員の方にはその人しかできない仕事があるので、自分が率先して引き受けた。昨年、事故で脳挫傷となり、嗅覚を失ってしまったが、この時のためだったのだろうと思った。災害時の衛生管理は重要であるので、感染症の予防のためにも必要だった。自分が手伝ったことで、手助けしてくれる人たちも増えた。