世界から遅れを取った…あまりに遅すぎた世界水準の拳銃【2式拳銃】
かつて一国の軍事力の規模を示す単位として「小銃〇万挺」という言葉が用いられたように、拳銃、小銃、機関銃といった基本的な小火器を国産で賄えるかどうかが、その国が一流国であるか否かの指標でもあった。ゆえに明治維新以降、欧米列強に「追いつけ追い越せ」を目指していた日本は、これら小火器の完全な国産化に力を注いだのだった。 太平洋戦争が始まると、民用銃器の生産が制限され、軍用銃器の生産に総力が注がれるようになった。このような流れを受けて、民用銃器の生産を行なっていた大手の銃砲店のなかには、軍の要請で軍用銃器の開発や生産に携わるところも現れた。その1社に、神田で1895年に創業した浜田銃砲店があった。 この浜田銃砲店に対して、軍は拳銃の開発を依頼。そこで同店は日本銃器株式会社を設立し、浜田銃砲店の創業者のご子息のひとりである浜田文次氏が、拳銃の開発と設計を行った。 こうしてまず完成したのが1式拳銃(この名称は制式名ではない)で、当時、人気が高かったブローニングM1910に類似した形状とメカニズムを備えていた。作動性に優れていたため、軍の制式採用にこそならなかったが4000挺(異説あり)前後が生産され、士官用に市販された。 この1式拳銃に続いて開発されたのが、2式拳銃である。1式拳銃は.32ACP弾を用いるが、同弾は軍の制式弾薬(ただし準制式)ではなかった。そこで軍は、制式弾薬の8mm南部弾を用いる拳銃を求めた。 そして、陸軍第1技研小型銃器担当官の谷戸賢二技術少佐が、軍側の指導者として浜田にさまざまな指示を出し、浜田式拳銃を略した「ハケ式拳銃」の秘匿名称の下に、2式拳銃が開発された。 簡単に言うとこの2式拳銃は、欠陥銃にもかかわらず量産が続けられていた94式拳銃とは違って欠陥はなく、当時の日本軍の制式拳銃弾だった8mm南部弾が威力不足だという点を除いては、世界水準の拳銃として仕上がっていた。 ちなみに、外部に露出したシアーを押すと撃発されて発射してしまう94式拳銃の欠点について、「拳銃収納時は薬室の実包を抜き出しマガジンを外す」という運用規則があるので欠陥ではないとする主張もあるようだ。しかし同様の運用規則が付与されていた、セーフティー皆無で有名なソ連のトカレフには、引金以外で94式拳銃のように外から触ると実包が撃発されてしまう部位はない。 このことからもわかるように、94式拳銃は間違いなく欠陥銃であり、その後継として、優秀な2式拳銃はまさに最適であった。しかし1943年に制式化されたものの量産化に手間取り、終戦までに500挺とも1500挺ともいわれる同銃が完成しただけで、実戦配備はされなかった可能性が高い。 まさに「あまりに遅すぎた世界水準の拳銃」といえよう。
白石 光