二十歳のとき、何をしていたか?/高田純次 夢破れた若き青年が、“軌道修正”を繰り返しながらたどり着いた劇団という場所。
自由劇場に衝撃を受け、 演劇人生の幕が開ける。
「思うに、人はいつもベストの道を選択できているわけではない。だから、心に陰りが生じたり、疑問を持ったりする。そういう時に、自分の納得いく軌道修正がきちんとできるかどうかが肝心なんだと思う」 【取材メモ】20代の頃から横尾忠則さんに憧れていたという高田さん。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の取材で初対面を果たす。 自伝の中にそう綴るのは高田純次さんだ。“日本一のテキトー男”の異名を取る高田さんらしくない透徹な人生哲学ではあるが、実際、高田さんの20代は“軌道修正”の連続だったらしい。 「アイビールックを身に纏い、ベルトで十字に結んだ教科書を持って、大学のキャンパスで女の子を口説くっていうのが夢だったんですよ(笑)」 18歳の頃の夢をそう振り返る高田さん。しかし、それは脆くも崩れ去る。大学受験に失敗したからだ。1浪したもののまたどこにも引っかからず、藁にもすがる思いで入学したのが、御茶ノ水にある東京デザイナー学院のグラフィックデザイン学科。どうしてグラフィックデザイン学科だったのだろう? 「当時は、横尾忠則さんを筆頭に、宇野亜喜良さん、田名網敬一さんらが活躍し始めた時期で、グラフィックデザイナーとかイラストレーターみたいな“横文字産業”に憧れてたんですよ。絵を描くのは昔っから得意だったしね。ただ、あんまり勉強したって記憶はないね(笑)。授業の最初だけ出て出席を確認されたら、学校の近くにあった『コペンハーゲン』っていう領事館を改装した喫茶店とか、銀座のモダンジャズ喫茶『69』とかに行って、同級生と時間を潰す日々でした。まぁ、ちゃんと卒業はしましたけど、専門学校だから2年じゃないですか。あっという間で。本当は4年くらい遊びたかったんですけどね」 卒業後は、「就職したくはないけどお小遣いはほしい」ということでフリーター生活に突入。自動車教習所に来た人の写真を撮るバイトで糊口をしのいだ。そんな気楽な暮らしを謳歌する高田さんが、第一の“軌道修正”を迫られる出来事が勃発したのは、25歳のときだ。 「先輩に頼まれてある劇団のポスターを描くことになったんですよ。そしたら、『暇なら舞台にも出て』って誘われて、通行人の役をやることになったんです。もちろん、人手が足りないからってだけだったんだけど、考えてみれば、あれが俺の初舞台だな。それが終わった後、同じ先輩に『面白い舞台があるから』って見に行ったのが、自由劇場の『マクベス』。これは面白かったんですよね。小さいところで跳んだりはねたりして、もう圧倒されちゃって」 自由劇場とは、1966年に演出家の串田和美さんと俳優の吉田日出子さんによって結成されたアングラ劇団の先駆的存在だ。当時、拠点である六本木のアンダーグラウンド自由劇場には、公演のたびに黒山の人だかりができたという。「あれを見ちゃったのが運の尽きだね(笑)」と本人は語るが、この出合いがあったからこそ今の高田さんがあるのは、その後の展開からも明らかだ。 「『マクベス』の1年後、自由劇場が研究生を募集しているのを知ったんですよ。稽古は夜6時から3時間だっていうんで、これならバイト終わりに行けるなと思って、応募してみたんです」