【プロ1年目物語】マスコミからは猛批判、原辰徳ヘッドからはベンチ裏で激怒された「2001年の阿部慎之助」
過酷な環境で必死に食らいつき
マスコミ慣れしていない22歳の若者には酷な環境だった。今のSNSようにアスリート自ら手軽に発信する手段もなく、不満と不信感だけが積もっていく。だが、阿部は必死に食らいつき、バットで結果を残す。8月1日の中日戦では、東京ドーム右翼席中段へ36試合ぶりの5号満塁アーチ。当初苦しんだ変化球にも打つポイントを前に置くことで対応し、8月は2試合連発を含む6本塁打の固め打ちで二ケタ本塁打に到達する。それでも、首脳陣は次代の正捕手を育てるため、ディフェンス面も徹底的に鍛えた。 「今でも入団1年目のベンチ内を思い出すことがあるんですけれど、僕の後ろには長嶋監督と原ヘッドコーチが仁王立ちしていたんです。僕が試合でミスをしたり、大量失点したりすると、原さんに首根っこをつかまれて、ベンチ裏に連行されて、こう言われたことがありました。『お前さんは、この試合がどういう試合なのかわかっているのか?』。僕はただただ、『はい! すみませんでした!』としか言えなかった」(阿部慎之助の野球道/阿部慎之助・橋上秀樹/徳間書店) 43歳の指導者タツノリも、チームの末っ子キャラの慎ちゃんもまだ青く若かった。2001年シーズン、巨人はペナント終盤に追い上げを見せるも首位ヤクルトには及ばず、2位で終え連覇ならず。阿部は規定打席には6打席足りなかったものの、13本塁打は田淵幸一以来2人目の新人捕手シーズン二桁本塁打となった。のちに通算2132安打、406本塁打を記録する「巨人史上最強キャッチャー」も、1年目は打率.225からのスタートだった。その年限りで、ついに長嶋監督は退任、村田真一も現役引退へ。いわば捕手の世代交代を完了させた上で、原辰徳新監督が就任するわけだ。その後の原巨人の栄光の歴史は、そのままキャッチャー阿部慎之助の全盛期でもある。 プロ1年目の長嶋監督や原ヘッドとの出会い、そして先輩捕手の村田は、まだ俺はやれるという思いを持ちながらも、組織の将来を考え、ルーキーの自分に自身の役割を託してくれた。時が流れ、阿部は当時の村田と同じ30代中盤に差し掛かった頃のインタビューで、先輩への感謝を口にしている。 「村田さん(村田真一)とは今、選手とコーチの関係のほうが長くなってしまったんですが、よく言ってくれるのは、『お前が一人前になってくれたし、オレは辞めて良かったと思う』と。前年(2000年)、日本一になっているキャッチャーじゃないですか。村田さんにもプライドがあったと思う。でも、ヒョコッと来たガキんちょが、レギュラーで出てね……。今となっては、そう話してくれるので、良かったなと思うんですが、だからこそ、村田さんのためにも、もっと頑張らなければいけないなと思いました」(ジャイアンツ80年史 PART4/ベースボール・マガジン社) 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール