【プロ1年目物語】マスコミからは猛批判、原辰徳ヘッドからはベンチ裏で激怒された「2001年の阿部慎之助」
原ヘッドの進言で開幕スタメン
当時の巨人は長嶋茂雄監督時代。地上波テレビで毎晩放送される巨人戦は日本中から注目されており、松井秀喜、高橋由伸、清原和博といったスーパースターが顔を揃えていた。五輪出場経験があった阿部をもってしても、いきなりテレビの世界に飛び込んでしまったような感覚に襲われたという。そんな中でも、3月3日のダイエーとのオープン戦で1号アーチを放つと、敵将の王貞治監督が「前から思っていたけど、バッティングはいい」と称賛。そして、開幕が近づくと、巨人の原辰徳ヘッドコーチは長嶋監督にある進言をする。 「阿部慎之助は将来、チームをしょって立つ選手になると思いますし、私もそのつもりで彼を育てます。従って、ひとつお願いがあります。開幕からスタメンで使ってください」(スポーツ報知阿部2000安打特別号) この言葉に、ミスターは「それで行こう」とうなずいたという。いつの時代も、首脳陣は若い才能に出会うとチームの将来のために優先的に起用する。それがプロ野球の常識だが、いわば特別扱いのドラ1選手への風当たりは強かった。バッテリーを組むと露骨に嫌な顔をする先輩投手もいれば、アマチュア時代より覚えるサインも格段に増え、頭はパニック状態だった。 「やっぱり今振り返っても、ものすごいプレッシャーがありましたね。原(原辰徳)前監督がヘッドコーチで、開幕戦の3日前くらいに『開幕行くぞ!』と言っていただいて。あまりの緊張で、そこから熱が出ました(苦笑)。当時は寮に入っていたんですけど、東京ドームで練習して、それから実家のほうの病院で点滴をして、っていうのを繰り返してました、開幕までの3日間(笑)」(ジャイアンツ90年史/ベースボール・マガジン社)
2001年3月30日、東京ドームでの阪神戦で巨人の新人捕手では山倉和博以来23年ぶりの開幕スタメンに起用されると、恐怖の八番打者は初打席の2点二塁打を含む4打点の大暴れ。守ってはエースの上原浩治を懸命にリードして、お立ち台に呼ばれる最高のスタートを切る。しかし、翌31日の先発マスクはダイエーから移籍してきた吉永幸一郎、3戦目の4月1日はベテランの村田真一が先発も、阿部は代打で登場すると同点タイムリー。9回裏は捕手として無死満塁の大ピンチを凌ぎ、再びお立ち台に上がった。 4月13日の横浜戦では待望のプロ第1号を放つも、ペナント序盤は村田、吉永と併用。プロの鋭い変化球に苦しめられ、5月には打率1割台まで下がった。ピンチでマウンドに集まると、先輩野手から「お前、なんちゅう配球してんだよ!」とどやされる。情けなくて悔しくて、試合後のロッカールームで涙を流したこともあった。寮生活は規則だらけで、球団も金の卵の阿部に対しては他の選手より厳しく管理する。まだスマホのない時代、気分転換に新聞や雑誌を開こうものならば、目に飛び込んでくるのは自身に対する容赦ない批判記事である。当時の長嶋巨人の主力選手は、一挙手一投足をメディアから追いかけられる立場だった。いわば1979年生まれの阿部は、球界が巨人中心に動いたジャイアンツ・アズ・ナンバーワン時代を知る最後の世代でもある。 「自分でもわかっている部分はあるのに、それに追い打ちをかけるように批判される。しかもどのスポーツ紙をめくっても、必ず『阿部批判』が書かれている。人生経験を積んできた今ならまだしも、マスコミに叩かれることに対して免疫のない、当時の僕にしてみたら、これは相当に精神的なストレスになりました」(阿部慎之助の野球道/阿部慎之助・橋上秀樹/徳間書店)