「ここで死にましょうか」最果ての地で、妻は夫に言った。
数々の名作を世に送り出した作家夫婦の吉村昭と津村節子。行商旅で北海道の果ての地に流れ着いた新婚夫婦は、凍てつく寒さと不安のなか、想像を絶する試練に直面する。彼らは厳しい環境下で何を見つけ、何を失ったのか。妻・節子と息子・司の証言を通じて、当時の情景を描きだす。※本稿は、谷口桂子『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 新婚ホヤホヤの津村節子が 最果ての地で漏らした言葉 「ここで死にましょうか」 真冬の凍りつくような海風が吹きつける北海道根室の夜の海岸で、吉村昭のコートの袖にしがみつきながら津村節子は言った。華奢な体が吹き飛ばされそうなほどの烈(はげ)しい風で、暗闇が拡がる海のほうを向くと息もできないほどだった。 当時吉村は27歳、1歳違いの津村は26歳。吉村は学習院大学を中退、津村は同短期大学を卒業し、1953年(昭和28年)に結婚したばかりだった。その翌年、2人は新婚旅行ならぬ行商の旅に出る。 吉村が始めた商売が発端で、厚手のセーターを駅留めの鉄道便で送り、現地で空き店舗を探し、「山形特産純毛セーター」の赤い幟(のぼり)を立てて商品を並べて売る。 1週間商いをすると、次の土地へ向かった。宮城県の石巻から始まって東北をめぐり、青函連絡船で北海道に渡った。函館や札幌では売れなかったので根室に流れ着いた。 津村は決してヤワな女ではない。福井で織物業を営む父親の庇護のもとで育ったお嬢様だが、外見からは想像できない芯の強さと負けん気を秘めている。 「死にましょうか」という言葉が、にわかに津村と結びつかない。 しかし私のボイスレコーダーには、根室の海岸の場面についての津村の問わず語りの肉声が残っていた。
「もうあてもないし、お金はなくなるし、いつまでもさまよっているわけにはいかないから、ここで死んじゃおうかと言いました」 津村は自分の中に新しい生命が宿っているのに気づいた。翌年誕生する長男の吉村司である。 今回、両親についての話をお願いし、応じてくれた司が、津村から「死にましょうか」の話をきいたのは大学生のときだった。 「ゴザを敷いて、毛糸の商品を売るような商いで、払っても払っても、セーターの上に雪が降り積もっていく。貧しいし、新婚の夫はほっつき歩いている。店番をさせられた母は膀胱炎にもなった。母は福井の社長令嬢ですよ。まあ、ここで終わりと思ったんでしょう」 そもそも津村にとって、吉村との結婚は、こんなはずではなかったという想定外の連続だった。 ● 文学結婚の裏にある 吉村の覚悟と執筆の道 2人は学習院大学の文芸部で出会い、ともに小説家志望のいわば文学結婚だった。 「結婚前の学生時代に、2人で満員電車に乗ったとき、手の甲が触れただけで、父は顔が真っ赤になった。それくらい母に惚れてたんですよ。あとになって父がその話をしたら、母は、まあ、そうだったの?という感じでしたけど」 ベタ惚れ、という感じだったんでしょうか?と尋ねると、「まあ、そうでしょうね」と司はうなずいた。