TV局アナウンサーから難民支援の道へーーウクライナで1年、青山愛の今
学校のトイレで弁当を食べた学生時代
──そもそも今のような国際貢献の分野に関心をもった原点を教えてください。 親の仕事の関係で、中学校から高校2年生までアメリカのテキサス州で過ごした経験が、大きく影響しているように思います。 当時私が暮らしていた地域は白人社会でした。アジア人はほとんどおらず、日本人は学校で私一人だけ。始めは仲間に入れず、ランチのときは同じテーブルに座らせてもらえませんでした。 だから最初の2~3か月は、トイレに行って一人でお弁当を食べていた記憶があります。母にも「おにぎりではなく、みんなが持ってくるようなピーナッツバターのサンドイッチにしてほしい」とお願いしたりして。 多感な時期にそうした体験をしたことが、自分の中ではとても大きかったように思います。肌の色や国籍、価値観、文化的なバックグラウンドがみんなと違う。つまり、自分が社会における「異なる他者」であることを実感しました。 いつか、自分と同じような思いをする人の側に立って何かしたい。そしてそれを、さまざまな国の人たちが一つの目的のために働く、国際機関のような場所でできたら。そんな漠然とした憧れのようなものを、中学生の頃から抱いていました。 ──そこから日本の大学を卒業して、テレビ局のアナウンサーとなられました。 大学生の頃に、マレーシアへのスタディツアーに参加したんです。そのときに中東の衛星テレビ局アルジャジーラの事務所を訪問する機会があって。そこに「声なき声に光を」というスローガンが貼ってあったんです。 それを見たときに、メディアというのは、マイノリティや脆弱な立場にある方など、社会に埋もれてしまっている人たちの声に光を当てられる仕事なのだと知りました。それで就職活動のときに、テレビ局を受けてみようと。 今思うと、テレビ局で働くことも、現在と手段は違えど、中学生の頃に抱いた思いを実現するための一つの方法だったのだと思います。 ──その後、6年間勤めたテレビ局を退社されます。このきっかけは? 国際機関で働きたいという思いがずっとあったんです。自分の思いをなかったことにして終わらせず、やっぱりチャレンジしてみたいと思いました。 さらに、報道番組に携わる中で、フレッシュなニュースを、早いサイクルでどんどん回さないといけない現実も知りました。幅広く社会課題を世の中に伝えることの重要性とマスメディアのインパクトを感じつつも、もう少し一つの課題に対してコミットしてみたいと感じるように。それで退職を決意しました。 ──退職後、2017年からアメリカの大学院で国際開発について学ばれました。さまざまなテーマがある中で、なぜ難民問題にフォーカスされたのでしょう。 そうですね。ジェンダーや教育など他のテーマについても、もちろん興味がありました。そんな中で、私が大学院で学んだ時期は、特に2015年に起きたヨーロッパの難民危機について授業でディスカッションする機会がとても多かったんです。実際に、クラスメイトに長い間難民キャンプで暮らしていたという難民の生徒もいました。 「異なる他者」であることによって迫害されたり、国を追われたりする人たちがいる。難民問題について学べば学ぶほど、自分の根っこにある思いと重なるものを感じました。それでUNHCRで働くことに興味を持ちました。