パリ五輪レスリング 文田健一郎が語る金メダルに懸けた3年間への熱き想い 世界屈指の「反り投げ」のルーツ
強く、しなやかな肉体を大きしならせ、抱えた相手を後方へ投げ飛ばす。世界屈指の「反り投げ」を武器に、今夏、パリで2度めの五輪マットに立つ文田健一郎。攻撃が許されるのは上半身のみ。その制約が攻略の難しさも、豪快な投げも生むグレコローマンスタイルを愛し、また苦しみもした文田の、レスラー人生20年をたどる。[ウエイトトレーニング専門雑誌『IRONMAN2024年6月号』より]
もっと勝利を体験したい レスリングに目覚めた瞬間
――父親の敏郎さんは名門・韮崎工業高校のレスリング部監督。文田選手が競技を始めたのも、お父様がきっかけだそうですね。 文田 小さいころは高校の道場が遊び場みたいな感覚で、マットを転げ回っていました(笑)。その流れで、小学3年生くらいのときに「お前もちょっとやってみないか」と父に勧められて。最初は同世代の子たちと週1、2回、レクリエーション感覚でやっていました。 ――キッズレスリングなど幼児期から始める子も多いので、それほど早いスタートではないですね。 文田 僕自身がそんなにレスリングを好きじゃなかったんです。どちらかといえば周りの子がやっている野球やサッカーがしたかったし、後になって父に聞いたときも「本人にやる気がないから無理はさせなかった」と言っていました。 ――競技に真剣に取り組もうと思ったのは、いつごろですか。 文田 中学校に入ってからですね。全国大会で1回だけですが勝てたことが嬉しくて、「もっとこういう体験をしたい」と。そこからほぼ毎日、高校生に混じって父から厳しい指導を受けるようになりましたが、レスリングに対して前向きになったせいか、全然苦じゃなかったなというのは、自分の記憶に鮮明に残っていますね。
「いつ出たい」ではなく「出たい」 目標設定の差で逃した五輪
――競技生活20年の中で、レスラーとしての転機は? 文田 高校2年生のときにロンドンオリンピックを生観戦したときですね。父の教え子の米満達弘先輩が出場されて、その応援に現地まで行ったんです。 ――米満選手はフリースタイル66㎏級で優勝。レスリング日本男子では24年ぶりとなるオリンピックでの金メダル獲得でした。 文田 僕が子どものとき、米満先輩は高校生。そのころからよく知っている人がオリンピックの決勝のマットに立ち、満員の会場でものすごい歓声に包まれながら目の前で勝ち名乗りを受けている。そのシーンがもうすごく……何て言っていいか分からないくらい強烈で、「俺もここで勝ち名乗りを受けたい!」と。以前は「オリンピックに出られたらいいな」とか「夢はオリンピック」みたいに漠然としていた舞台が、その瞬間に夢から目標に変わって、そこから真剣にオリンピックを目指すようになりました。 ――当時の文田選手は16歳。年齢的には4年後のリオ大会ではなく、その先を目指した? 文田 そうですね。レスリング界では25歳くらいが選手として脂が乗り切る年齢と言われていて、計算すると8年後の2020年に僕は25歳になる。しかも、ちょうど当時は東京が招致活動を盛んに行っていたので、そこで金メダルを獲りたいと余計に思うようになりました。リオはその過程で行けたらいいな、というくらいのモチベーションだったので、やっぱり行けなかったですね。 ――2016年のリオ大会には、同じ日体大の2年先輩である太田忍選手が出場し、銀メダルを獲得しました。やはりモチベーションの差がありましたか? 文田 その時点では自分の実力がまだ全然低かったです。モチベーションの違いを痛感したのは、同期の樋口(黎・フリースタイル57級)がリオで銀メダルを獲ったときですね。自分は「2020年に絶対出たい」と思っていたけど、樋口は時期なんてこだわらず、「オリンピックに出たい」という思いがすごく強かった。だからこそリオに行けたんじゃないかなと。太田先輩もそうですが、「目標設定」が何より大事だと学びました。