エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業
1931年の満州事変を発端とし、日本は国力を結集した総力戦に突入していった。軍部の戦いやすいように法制が変わり、エネルギー産業の構造は組み替えられ、人も企業も戦争に駆り出された。膨張する軍事費や労力に反比例するように、国民が使える電気や生活品は少なくなり、困窮を極めていく。日本はアメリカからの石油禁輸が致命傷となって敗戦の運命を辿ったが、その過程で出来上がって今に残る電力、石油業界の枠組みも少なくない。 唯一の被爆国となり、日本は降伏した。エネルギー資源を確保する重要性を骨身に染みて学んだ。それが現在のエネルギー政策の根幹を成していると言っても過言ではなく、不戦の誓いとともに、戦争の教訓として受け継がれている。 今回は激動の戦時下で変革の荒波に揉まれたエネルギー業界の動きを追っていく。
電力は戦力
「欲しがりません勝つまでは」 ── 。戦況拡大が続く中、1937年の近衛文麿(1891~1945年)内閣で女性や子どもなど非戦闘員を含む全国民に耐乏の精神が説かれた。「国民精神総動員」の政策で「ぜいたくは敵だ!」と節制を求めたり、「パーマネントはやめましょう」と当世風の髪型の自粛を促したりするスローガンが次々と掲げられた。 冒頭の、最も有名な標語の一つは「勝つまでは欲を捨てよう。お国のために尽くそう」という掛け声の下に国民の一致団結を図り、徹底した禁欲を社会通念として事実化していった。 精神論による統制とともに、1938年には国家総動員法が制定された。総力戦のために人的、物的資源を政府がコントロールできるという法律だ。 これは、1918年の軍需工業動員法が源流となる。日清、日露の両戦争と第1次世界大戦を踏まえ、総力戦体制の構築が急務だとする声の高まりから制定された。戦時に不備がないよう、平常時に産業を保護、育成し、戦時には軍用に使える企業の所有物を政府が管理できることを定めた。